服部龍二『田中角栄』2016-09-22

2016-09-22 當山日出夫

服部龍二.『田中角栄-昭和の光と闇-』(講談社現代新書).講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883825

著者は、1968年(昭和43年)の生まれとある。私よりも若い……私ぐらいの世代(1955)だと、ちょうど、田中角栄の登場(首相になったとき)から、コンピューターつきブルドーザー、日中国交回復、日本列島改造論、立花隆の田中金脈問題、ロッキード事件、そして、その晩年から死にいたるまでを、マスコミなどでつきあってきて、記憶にもっている。そのせいであろう、この本をざっと読んで、あまりにも冷静・客観的に、「歴史」として田中角栄のことを書いてあるので、う~ん、このような見方ができる時代になったのか、という感慨の方が先になってしまう。

で、気になるところといえば、どうしても、ロッキード事件の真相はいかに、ということなのだが、この本、読んでみてもはっきりとは書いてない。まあ、真相は別にどうでもよくて、裁判がどのように推移したかを描いておけばよい、という立場もあるのだろう。しかし、なんとなく、物足りない気がしている。
第6章 誤算と油断――ロッキード事件(pp.228-259)

たぶん、このように感じるのは、私よりも上の世代までなのかもしれない。若い人になれば、もはや昭和の過去の歴史の一コマなのであろう。

「日本列島改造論」についても、結局は東京への一極集中をまねくことになったとの批判があることについて、

「これらのことを田中の限界とするのは簡単だろう。しかし、地方から東京に向かおうとするメンタリティは、政策や理屈を超えた日本人の本能である。田中といえども、それは容易に是正できなかったのである。(p.143)

というのは、どうなのだろうか。「日本列島改造論」の登場したときの熱気と、それから、田中金脈問題、ロッキード事件を契機として、手のひらを返したようなマスコミの反応、これらを体験的に知っている人間としては、そのようなドラマの背景にある日本の心性とでもいうべきものを探っていくべきではないかと思えてならない。ただ、政治、あるいは、政局の話をするだけではなく、それを受けとめる、あるいは支持する(しない)人びとの心情というものがある。

かつて、若いとき、『田中角栄研究』(立花隆)を読んだことのある人間としては、この本を通読してみて、時代が変わったな、という気がした本である。

おそらく、このような政治を歴史的に語る語法では、現代の問題として、民主党政権の誕生と挫折、それから、昨今の安保法案をめぐる攻防、このような動きも、いずれは、冷静に分析される対象となるのだろうと思う。これは、必要なことなのかもしれないが、その同時代に生きている人間の感じたこと、思ったこと、これをどのようにくみ上げていくか、その方法論も別にあってよいのではないかと思えてならない。

この本にかぎらず、最近、田中角栄についての本がたくさん刊行になっている。ここのところの一連の動きをみていると、やはり田中角栄というのは再評価されるべき政治家なのだと、再認識させられる。これは、これからの次の世代の人の仕事になるのだろう。ともあれ、昭和(戦後)という時代も、「歴史」として研究されるようになってきた、その思いをつよく感じた本である。

コメント

_ 小原正靖 ― 2018-09-22 06時08分14秒

私よりも若い方で5年以上離れると感覚が違いますね さらに若い方も活躍されているので比較参考しています

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/22/8196387/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。