昭和11年の「大日本帝国」の史料について2016-10-06

2016-10-04 當山日出夫

この件……日本の国の名称が「大日本帝国」に決まったこと……について、半藤一利の本を引用しておいた。

半藤一利.『荷風さんの昭和』(ちくま文庫).筑摩書房.2012 (原著、『荷風さんと「昭和」を歩く』.1994.プレジデント社 文藝春秋.『永井荷風と昭和』(文春文庫).2000.文藝春秋)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429414/

やまもも書斎記 2016年9月30日
大日本帝国という言い方
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/30/8205432

また、つづけこのようなことも書いた。

やまもも書斎記 2016年10月1日
大日本帝国の「国号ニ関スル件」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206252

9月30日の文章で、『荷風さんの昭和』(ちくま文庫)から、引用しておいた。その少し前のところには次のようにある。

著者が府立一中の入学試験をうけたときのこととして、
「「我が国の統一的な国号をいいなさい。どこがきめたのですか。いつからですか。」/自慢ではないけれど、わたくしは堂々と胸を張って答えた。/「大日本帝国です。外務省が統一してそういうことにきめました。昭和十一年からです」」(p.171)

ここを再確認して、もう一度、アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを検索してみた。今度は、キーワードを「国号」としてみた。昭和11年4月に限って検索すると、次の史料がヒットした。

件名標題 11 昭和11年4月
レファレンスコード B02031472900

条一機密合第五九一号 昭和十一年四月二十四日 外務大臣有田八郎 我国国号及地凶首御称呼ニ関スル件 本件ニ付テハ去ル三月二十日附条一機密合第三七八号往信ヲ以テ申進メタル処四月十八日ノ新聞紙上ニ宮内省外事課長謹話トシテ従来ノ御称呼タル「皇帝」ニ代リ「天皇」ト称シ奉ルヘキ旨ノ記事掲載セラレタリ、右ハ偶然ノ事実ヨリ宮内省側カ当省ト聯絡ナク単独ニ発表ノ已ムヲ得サルニ至リタルモノナルカ右ノ如キ発表アリタル以上当省トシテ国際条約等当省関係ノ事項ニ付此ノ上秘密ニ附シ置クハ妥当ナラサルノミナラス新聞中ニハ国号ノ書方ニ関シ誤リタル報道ヲ伝ヘタルモノモアリノタルニ付旁々同日当省ヨリモ左記ノ通公表シ十九日ノ新聞紙ニ掲

この文書の所蔵は、外務省外交史料館。A-5-3-0-14_001

これを読むと、宮内省が勝手にそれまでの「皇帝」にかわって「天皇」とすることを、新聞に発表した。それで、外務省としてもそれにあわせることにした、と読める。画像データの部分を読んでみると、「天皇」の呼称と同時に「大日本帝国」を用いることにした旨も書いてある。

このことから、いくつかのことが読み取れよう。

第一に、宮内省と外務省が、連絡してのことではなかったらしいということ。どうやら縦割り行政のなかで、勝手に決められてしまったので、それに他の省もしたがったということらしい。

第二に、戦前は、「天皇」「大日本帝国」だと思っていたのだが、「皇帝」が宮内省などでは一般的に使われていたらしいこと。

第三に、これは、もとにもどって半藤一利の文章から読み取れることだが、この件については、当時の中学の入試問題にもなるような知識であったということ。

以上、いくつかの興味深い歴史がみてとれると思う。

戦前は、「大日本帝国」であり「天皇」であったというのは、どうやら、戦後になってからかの思い込みのようなものであるのかもしれない。もちろん、名称の問題と、天皇制のあり方の問題は別に考えなければならないが。

このことは、昭和11年のこと。今から、80年ほど前のことになる。こんなことが、もう「歴史」のかなたのことになっている。この意味では「歴史探偵」として、半藤一利が、このことを文章に残しておいてくれたことは貴重なことだと思っていいだろう。