『夏目漱石の妻』第三回2016-10-10

2016-10-10 當山日出夫

土曜日の放送を録画して、日曜日に見て、そして感想を書いてとなると、どうしても、ブログへの掲載は、今日になる。

やまもも書斎記 2016年10月3日
『夏目漱石の妻』第二回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/03/8208735

やまもも書斎記 2016年9月27日
『夏目漱石の妻』第一回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/27/8203152

やはり、というべきか、まだ、ネコに名前はなかった。

第三回の中心は、漱石の作品でいえば、『道草』と『坑夫』になる。(これを書いていて……ATOKは「こうふ」から「坑夫」を変換してくれなかった。もう死語なのか。)

ところで、気になっているのが、「語り」が、房子(鏡子のいとこ)という設定。私は、漱石研究の本などあまり読まない方だが、一般的に『坑夫』という作品は、それほど論じられることはないようだし、しかも、漱石周辺の人物として、房子が大きく登場するということもないように思っている。(ただ私が不勉強なせいかもしれないが。)

ただ、ちょっと見てみると……『坑夫』という作品、文庫本で出ているのは新潮文庫だけのようだ。岩波文庫では出ていない。この『坑夫』の一件、房子との関係、これがどうなっていくのかが、次回につながっていくのだろうと思う。

このドラマ、基本の視点は、妻である鏡子にある。そのせいか、前回でも、漱石の英国留学のことは、簡単にすませてしまっている。ほとんど描かれることはなかった。ただ、行って帰ってきた、という描写であった。しかし、漱石研究の立場からするならば、漱石のロンドンでの体験は、きわめて深刻で意味のあるものにちがいない。それをあえて、スルーしてしまうのは、それなりに意図のあってのことだと思う。

それから、気になっていることは、この作品には、「太平の逸民」「高等遊民」の類が登場しないことがある。これは、かなり意識してのことなんだろうなあ、と思って見ている。これらは、あくまでも、漱石の作品のなかでのことであって、現実の漱石の生活は、とてもそんなものではなかったということなのであろう。漱石は、そのような生き方を、一つの人間のあり方の類型としてはいただろうし、それにあこがれるような面もあったのかもしれないとは思うのだが。

先年、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)をドラマ化したとき、その放送でも、漱石は登場いしていたが、どちらかというと「太平の逸民」「高等遊民」的な描きかたであったのを思い出す。

たぶん、次回は、修善寺の大患になるのだろうし、「則天去私」をどう描くか、このあたりが気になるところである。