森まゆみ『千駄木の漱石』 ― 2016-10-20
2016-10-20 當山日出夫
このところ、漱石関係の本(文庫本などであるが)を、よく読むようになっている。その一冊。
森まゆみ.『千駄木の漱石』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2012)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433589/
例によって付箋をつけながら読んだが、その付箋をつけた箇所をいくつか。
「『道草』と『吾輩は猫である』は女がよく書けていると私は思う。」(p.86)
女性の読者から見て、漱石の作品に描かれた女性はどうなのか、わからないが、言われてみれば、なるほどそういう見方もできるのか、と感じないではない。『道草』『猫』ともに、千駄木に住んでいる時代を描いているといってよい。だが、作品としては、対照的な内容になっている。この二つの作品で出てくる「女」は、当然ながら、漱石の妻(鏡子)がモデルと考えていいのだろう。
「この二作だけはともに生活を積み上げた夫人鏡子がモデルであって、実にリアリティがある。神経質で夢見がちな夫に付き合ってはいられない。「私には子どもがおり、生活がある」。私はこの妻の言い分に共感する。」(p.86)
この意味では、その対極にあるのが、美禰子(『三四郎』)なのかもしれないと思ったりもする。
また筆者(森まゆみ)は、こうも書いている。
「漱石の書いたもので一番好きなのは書簡。何で家族以外にはこんなにやさしいんでしょう。」(p.120)
漱石全集(岩波版)、今のところ二セットもっている。が、あまり、私は、書簡とか日記までは、目をとおすことがない。
とはいえ、近代文体の成立という観点から見るならば、漱石の書簡の文章というのも読んでおかなければならないかな……となると、こんど岩波からでる新しい全集を買って、それで読むことにしようか、などと思ったりである。(この件については、『夏目金之助ロンドンに狂せり』(末延芳晴)に言及がある。)
やまもも書斎記 2016年10月19日
末延芳晴『夏目金之助ロンドンに狂せり』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/19/8232019
その漱石の文章についていえば、次のような指摘も重要かと思う。
「のちに弟子となる森田草平は、漱石のことを「眼で見て書くよりは耳で聴いて文章を作った人である」と評した。でたらめな当て字を用いたのもその証左であると。同時に『猫』の快いリズムもまた「耳の人」漱石ならではのことである。」(pp.217-218)
そう言われてみれば、『草枕』の冒頭も、眼で見る文章というよりも、耳で聴く文章と理解される。
漱石の作品の多くは新聞連載(朝日新聞)であるが、その読者は、音読したものだろうか。それとも現代のように黙読が中心であったのか。このあたりの事情を考えて見ることも、漱石の文章の成立……近現代の口語散文の成立……と、どこかでつながることにちがいない。
ともあれ、この『千駄木の漱石』、漱石の文学で楽しんでいるという雰囲気の伝わってくる作品になっている。近代文学専攻ということで、作品の「解釈ゲーム」の修羅場となっているような(と、勝手に思い込んでいるのだが)漱石について、気楽に読める楽しい本だと思うのである。だが、そのなかには、時としてするどい指摘のあることも見逃せない。貴重な本である。
このところ、漱石関係の本(文庫本などであるが)を、よく読むようになっている。その一冊。
森まゆみ.『千駄木の漱石』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2012)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433589/
例によって付箋をつけながら読んだが、その付箋をつけた箇所をいくつか。
「『道草』と『吾輩は猫である』は女がよく書けていると私は思う。」(p.86)
女性の読者から見て、漱石の作品に描かれた女性はどうなのか、わからないが、言われてみれば、なるほどそういう見方もできるのか、と感じないではない。『道草』『猫』ともに、千駄木に住んでいる時代を描いているといってよい。だが、作品としては、対照的な内容になっている。この二つの作品で出てくる「女」は、当然ながら、漱石の妻(鏡子)がモデルと考えていいのだろう。
「この二作だけはともに生活を積み上げた夫人鏡子がモデルであって、実にリアリティがある。神経質で夢見がちな夫に付き合ってはいられない。「私には子どもがおり、生活がある」。私はこの妻の言い分に共感する。」(p.86)
この意味では、その対極にあるのが、美禰子(『三四郎』)なのかもしれないと思ったりもする。
また筆者(森まゆみ)は、こうも書いている。
「漱石の書いたもので一番好きなのは書簡。何で家族以外にはこんなにやさしいんでしょう。」(p.120)
漱石全集(岩波版)、今のところ二セットもっている。が、あまり、私は、書簡とか日記までは、目をとおすことがない。
とはいえ、近代文体の成立という観点から見るならば、漱石の書簡の文章というのも読んでおかなければならないかな……となると、こんど岩波からでる新しい全集を買って、それで読むことにしようか、などと思ったりである。(この件については、『夏目金之助ロンドンに狂せり』(末延芳晴)に言及がある。)
やまもも書斎記 2016年10月19日
末延芳晴『夏目金之助ロンドンに狂せり』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/19/8232019
その漱石の文章についていえば、次のような指摘も重要かと思う。
「のちに弟子となる森田草平は、漱石のことを「眼で見て書くよりは耳で聴いて文章を作った人である」と評した。でたらめな当て字を用いたのもその証左であると。同時に『猫』の快いリズムもまた「耳の人」漱石ならではのことである。」(pp.217-218)
そう言われてみれば、『草枕』の冒頭も、眼で見る文章というよりも、耳で聴く文章と理解される。
漱石の作品の多くは新聞連載(朝日新聞)であるが、その読者は、音読したものだろうか。それとも現代のように黙読が中心であったのか。このあたりの事情を考えて見ることも、漱石の文章の成立……近現代の口語散文の成立……と、どこかでつながることにちがいない。
ともあれ、この『千駄木の漱石』、漱石の文学で楽しんでいるという雰囲気の伝わってくる作品になっている。近代文学専攻ということで、作品の「解釈ゲーム」の修羅場となっているような(と、勝手に思い込んでいるのだが)漱石について、気楽に読める楽しい本だと思うのである。だが、そのなかには、時としてするどい指摘のあることも見逃せない。貴重な本である。
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