川本三郎『大正幻影』2016-11-05

2016-11-05 當山日出夫

川本三郎.『大正幻影』(ちくま文庫).筑摩書房.1997 (原著 新潮社.1990)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032669/

いまでは、この版は絶版のようである。岩波現代文庫から、新しいのが出ている。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6021330/top.html

サントリー学芸賞受賞作である。なぜか今まで手にとることがなかったが、古本で買って読んでみた次第。内容については、すでにいろんな人が書いていることと思うので、例によって、自分なりに感じたことをいささか。

近代日本……戦前まで……これを考えるとき、たぶん、三期にわけて考えることができる。

第一は、文明開化の時代。いわば『坂の上の雲』の時代である。とんで、第三は、昭和戦前のいわゆる軍国主義の時代。そして、その間に位置するのが、本書で描かれた、「大正」の時代ということになるのだろう。

もはや「明治」の偉大さはない。しかし、一方で、まだ昭和戦前のような暗い世相(と、今日では一般にとらえられている)時代でもない。いってみれば、近代の日本において、十分に「近代」を謳歌できた時代といえるのかもしれない。

著者は大正の文学者・文学作品を「幻影」をキーワードにして見ている。佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風……このようなことは、本書についてふれた文章ですでに言及されていることである。そして、私が重要だとおもったのは、この「幻影」が二重になっていることである。

大正期の文学者たちは、東京の川(隅田川)に、あるいは、都市に、映画に、ある種の「幻影」を見いだしている。それを、著者(川本三郎)は、現代の東京をあるきながら、現代の風景の向こうに、かつて大正の文学者たちが見たであろう「幻影」を、さらに想像の世界の「幻影」として、感じ取っている。

ところで、このようなことを書いて思うことは……最近のはやりでいうならば、デジタル・ミュージアム、バーチャル・ミュージアム、などが思い浮かぶ。情報工学の人がこの本を読んで、東京の下町界隈を歩いて、そこに、スマートフォンや、タブレットをかざして見れば、大正時代の写真とか地図がある、そんなシステムを考えるだろう……CH研究会などに出ている人間としては、ついついこんなことを考えてしまう。

だが、それに対して私の価値観では、基本的に「否」である。著者(川本三郎)は、現代の東京を歩いて、そこに大正の「幻影」を見ることで、遊んでいる。これは、「幻影」であることを意識してのことである。確かに、ここで、大正時代の地図とかがタブレットなどで表示されると「便利」かもしれない。しかし、それでは、「幻影」に遊ぶ妙味が薄れてしまうような気がしてならない。

とはいえ、これも人によって違うかもしれないとも思う。これからの時代、そのようなシステムがあれば、人はどんどんつかうだろう。今の東京の町を歩いて、そこが、戦前・大正・明治のころはどんなであったか、リアルタイムで、地図を重ね合わせて見ることができれば、どんなにか「便利」ではあるだろう。また、当時の写真や絵画などを見ることができれば、楽しいに違いない。

このときに思うことは、やはり文学がわかる人がシステムを作らなければならないだろう、少なくとも、文学や芸術の領域の専門家との、(本来の意味での)協同がなされて、はじめて意味のあるものなるにちがいない。

技術的には、ほとんど問題ない時代になりつつあると認識している。あとは、「幻影」であることを意識できるシステムを作れるかどうか、それを、使う人間が「幻影」に遊ぶことができるかどうか、ではないかと思うのである。

いや、そのようなことは、川本三郎のこの本を読んで感じればいいことであって、しいてそんなシステムをもとめることもない、という考え方もありえよう。

バーチャル・ミュージアムと人間の想像力の問題、このところの問題点を考えるヒントが、この本にはあるように思う。あえて言うならば安易にデジタル文学地図というようなことを考える前に、まずは、この本をじっくりと読んで、文学における「幻影」の意味を、よく理解すべきであろう。