塩野七生と司馬遼太郎2016-11-06

2016-11-06 當山日出夫

たぶん、塩野七生と司馬遼太郎……一般には高い評価で読まれるけれども、専門の歴史学研究者は、あえて黙殺する、という感じではないかと思って見ている。実は、私は、司馬遼太郎の主な作品は、高校生のころから読んできているが、塩野七生は読んでいない。タイミングを逸したということもあるのだが、とにかく、片仮名名前が苦手なのである。人名・地名で、片仮名表記の語が出てくると、それだけで、頭にすんなりとはいってこない。これが、日本のものを読んで、漢字表記の名前が出てくるのと、おおきな違いである。

だから、大学での専攻としても、国語学、国文学というような分野を選んだということになるのかもしれない、と思ったりするのだが。

ところで、この塩野七生と司馬遼太郎に、歴史家の視点から言及してある本。すでにふれた、

山内昌之.『歴史家の羅針盤』.みすず書房.2011
http://www.msz.co.jp/book/detail/07568.html

「塩野氏はやや控えめに職業的歴史家にも皮肉の矢を放っている。中世とはその名が揶揄めいて聞こえるほど長く千年間も続いた。「この時代の研究が専門の学者たちが気の毒に思えるほどに混迷を極めた時代」だというのだ。まるで、「専門の学者」たちは何故もっと立体的に面白く歴史を描けないの、と言われているみたいである。」(p.98)

「司馬さんは、歴史の条件を無視して軍事的な教養や実現知識をもつことを忌避する傾向を危険と考えた。「現実をきちっと認識しない平和論は、かえっておそろしいですね」という司馬さんの言葉は、二十一世紀の容易ならざる歴史のリアリティを予感する私などには黙示的な預言のように響くのである。」(p.158)

これらのことばは、歴史家として、自身の歴史研究、歴史叙述に自信があるからこそ、その矜恃のうらづけがあるからこそ、いえるのだと思う。

司馬遼太郎や塩野七生をどう読むか、これは、歴史学の分野にとって、難しい問題なのかもしれないと思う。

ともあれ、ここは素直に、歴史家・山内昌之が書いたものとして、うけとっておけばよいのであろう。私も、できれば、率直な気持ちで本を読みたいものだと思う。そして、そこを出発点にして、歴史と歴史叙述そして歴史小説について、考えをめぐらせてみたい。これから、こんなふうに本を読んでいけたらいいという希望のようなものとしてであるが。