桜木紫乃『氷平線』2016-11-28

2016-11-28 當山日出夫

桜木紫乃.『氷平線』(文春文庫).文藝春秋.2012 (原著 文藝春秋.2007)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167836016

桜木紫乃のことは、川本三郎の本で知った。

やまもも書斎記 2016年11月9日
川本三郎『物語の向こうに時代が見える』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/09/8244751

直木賞作家であるが……今まで手にとらずにきた。

北海道、それも、釧路あたりを舞台にした作品を多く書いているとのこと。この『氷平線』所収の「霧繭」も釧路を描いている。

「かのこ屋が店を構える駅前通りには、シャッターを下ろしたままの老舗商店が軒を連ねていた。目抜き通りに、この街が漁業と炭坑で栄えていた頃の面影はない。」(p.52)

私の世代であれば、北海道・釧路を舞台にした小説として思い浮かぶのは、『挽歌』(原田康子)である。調べてみると、この小説はまだ売っている。

原田康子.『挽歌』(新潮文庫).新潮社.1961
http://www.shinchosha.co.jp/book/111401/

そして、今の新潮社のこのHPには、桜木紫乃のメッセージがのっている。

「初めての小説体験。生まれた街の景色を変えた一冊です。」

とある。

文学は、風景を、街を、発見するものである。かつて、『挽歌』の描いたような釧路の風景はもはやなくなっている。そして、それをうけて、今の時代、桜木紫乃が、現代の釧路の街を描いている。それは、もはやかつての活気のある街ではない。過疎と高齢化のすすんだ、地方の小都市である。そこに、著者は文学を見いだしている。

『氷平線』所収の作品「雪虫」「霧繭」「夏の稜線」「海に帰る」「水の棺」「氷平線」のなかでは、私の読後感としては、「霧繭」が一番きにいった。たぶん、和裁士という伝統的な職人の世界を描いているせいかとも思う。

地方の過疎化・高齢化については、新聞・ニュースなどではよく話題になる。が、それを、文学として描き出すかどうかは、また別の問題である。この意味において、桜木紫乃は、そこに文学を見いだした作家ということになる。

地方都市の衰退、過疎、高齢化……そのなかにあっても、人は生きている。そこで生きている人を描くのが、文学である。そこに生きる人とその生き方を発見したというべきなのかもしれない。

文学が文体であるとするならば、桜木紫乃の作品の魅力は、その風景描写にもあるともいえる。

「その家はオホーツク海に面した幅一キロほどある入り江に建っていた。黒や灰色のトタンを継ぎ接ぎしながら、ようやく雨風をしのいでいる。他の家はみな肩を寄せ合うように四軒が五軒でひとかたまりになっているが、そのちいさなトタンの家だけは、打ち寄せられた貝殻のようにぽつんと離れた場所にあった。」「氷平線」(pp.213-214)

そして、この『氷平線』所収の作品は、基本的に主人公の視点から描かれる。主人公の視点をつうじて、他の登場人物の感情を、感じ取っていく。それは、露骨な言葉であったり、婉曲な態度であったりもする。読んでいくと、ふと、その主人公に感情移入してしていることに気づく。そのうまさが、この短編集の魅かと思う。

現代社会のかかえる問題……過疎、高齢化、地方の衰退……を、文学の世界でどのように描いていくか、気になる作家である。