日本の詩歌『北原白秋』2016-11-30

2016-11-30 當山日出夫

日本の詩歌『北原白秋』.中央公論社.1968

私のもっているのは、昭和46年(1971)の第7刷。物置の中で、古い本のところを探して見つけたきた。

解説(詩人の肖像)は吉田一穂。鑑賞は村野四郎。それに年譜がついている。

昭和46年の本ということは、これを買ったのは、高校生の時である。なつかしい思い出がよみがえる。たぶん、買った書店は、京都の河原町にあった、駸々堂か、京都書院だったと思う。ともに、今は、もうない。

この「日本の詩歌」のシリーズ。薄紫の装丁が、とても印象的である。まさに、詩的、ということばがぴったりくる感じで、どこか洒落ているような、気取ったような雰囲気がある。

本文も二色刷。通常の活字で本文が組んであり、下のところに、薄い紫色で、註解・鑑賞が、印刷していある。(このような本のつくりかた、今になっておもえば、実に凝ったことをしているものだと思う。まだ、活版の時代である。本文と注と別々に活版で組版して、それを組み合わせて版下にしてオフセット印刷したものだろう。)

「日本の詩歌」、古書をネットで探すと、実に安くで売っている。もう、このような詩を読む、鑑賞する、という時代ではないのかもしれない。

しかし、文学の流れのなかには「詩」があることをわすれてはいけないと思う。「詩」を抜きにして、文学を語ってもいけないと思う。だが、今では「詩」を抜きにして文学を語る時代になったのか、とも思う。

たとえば、

安藤宏.『日本近代小説史』(中公選書).中央公論新社.2015
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2015/01/110020.html

この本は、「小説史」として書かれている。ということは、「詩」を除いていることになる。このような文学史の叙述もありなのか、という気もしないではない。とはいえ、そもそも近代文学史の通史的な本自体が、今では、絶滅危惧種のようになっている。たとえ小説に限定するとはいえ、近代文学史の通史が書かれたこと、これは喜ぶべきことなのかもしれないと思ったりもする。

さて、昔、高校生のころに読んだ詩のいくつか。

 青いソフトに
青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきに。
酒か、薄荷か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。

 意気なホテルの
意気なホテルの煙出しに
けふも粉雪のちりかかり、
青い灯が点きや、わがこころ
何時もちらちら泣きいだす。

 あかい夕日に
あかい夕日につまされて、
酔うて珈琲店(カツフェ)を出は出たが、
どうせわたしはなまけもの
明日の墓場をなんで知ろ。

そして、この本の最後に掲載の歌。

秋の蚊の耳もとちかくつぶやくにまたとりいでて蟵(かや)を吊らしむ

晩年の白秋が、失明状態にあったことを知ったうえで、この歌をよむと、この詩人のいたりついた境地を見る思いがする。

追記 2016-12-01
調べてみると、中央公論新社のHPに掲載になっている。
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2003/06/570053.html