ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』2016-11-11

2016-11-11 當山日出夫

ピエール・バイヤール/大浦康介(訳).『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2008)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

最初、単行本で訳書が出たとき買って、ざっと読んで、今回、文庫(ちくま学芸文庫)になったので、また買って再読してみた。

この本の内容について、ふさわしくタイトルをあえて変えるとするならば、

『なぜ読んでいない本について堂々と語れるのか』

とでもした方がいいのかもしれない。

読んでいない本について、堂々と語る仕事としてまず、思い浮かぶのは大学の教師である。私の専門領域としては、国語学ということになるが、では、国語学の専門書、日本文学については、古典大系、古典文学全集の類を網羅的に読んでいるかというと、はっきりいってそんなことはない。

『源氏物語』を、最初から通読したことはないということは、すでに書いた。しかし、大学の講義で、『源氏物語』について言及するのに、なんら不都合はない。もちろん、全巻を順番に読んでおくにこしたことはないだろうが、それが必須の条件というわけではない。

では、なぜ、『源氏物語』について授業で語れるのか……それは、その作品の文学史的な位置づけ、研究史の概略を知っているからであり、全部を順番に読んだことはないにしても、かなりの箇所はきちんと読んでいる。部分的には精読しているといってよい。

つまり、『源氏物語』の読み方を知っている。勉強の方法を知っている、ということなのである。

だが、だからといって、『源氏物語』をまったく読んでいなければ、それについての研究書・論文のいくつかを読んだことがなければ、これは、はっきりいって、教師として失格と言ってよいであろう。

このようなことを、『読んでいない~~』では、次のような箇所が該当するのかと思う。

「教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本を始めから終わりまで読む必要はない。この能力が発達していればいるほど本を通読する必要はないのである。」(p.39)

「このように、教養とは、書物を〈共有図書館〉のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。」(p.66)

つまり、「教養」があれば、本を全部にわたって通読する必要はない。

では、どうやればその教養は身につくのか……それは、やはり、「読書」と「教育」によってである、ということになる。ある程度は、本を読み、その読み方について教育をうける、これが必要だろう。

本書『読んでいない~~』は、読書論であると同時に、教養論であり、教育論の本であると思う。タイトルはいたって挑発的であるが、しかし、その書かれている内容は、逆に、常識的な読書文化論、教養論であると、私は読んだ。その常識的なレベル、あるいは暗黙知と言ってもよいかもしれない、そのようなことを、あえて、俎上にのせて論じてみたということである、と理解する。

はっきりいって、この本を読まずに読んだふりをするのも、決して悪いことではないと思う。それは、この本の語っている内容が、ある意味で、きわめて常識的な読書についての考察であるといってもよいからである。常識的すぎる、あるいは、暗黙知であるがゆえに、いままであまりおもてだって言及されることのなかったことについて書いてある。この意味では、なぜ自分は読んでいない本について語ることができるのか、じっくりと内省してみれば、おのずと答えの出ることであるともいえる。

とはいえ、暗黙知とされるべきことについて、あえて論じるというのは、刺激的で知的な興味をそそる仕事ではある。この観点において、非常に面白い本だと思う。

『真田丸』あれこれ「完封」2016-11-15

2016-11-15 當山日出夫

『真田丸』2016年11月13日、第45回「完封」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story45.html#mainContents

『坂の上の雲』(NHK)の、旅順攻撃、二〇三高地を思い出してしまった。それぐらい、この回の戦闘シーンは迫力があった。そして、圧勝であった。(『坂の上の雲』では、逆に、日本軍がやられるのであるけれど。)

ところで、やはり気になるのは、忠誠心をどのように描くかということ。徳川、豊臣、それぞれへの思いが登場人物たちにある。この回で興味ぶかかったのは、兄(信之)だろう。徳川への忠誠をちかいながらも、豊臣に兵糧をおくろうとする。これは、別に豊臣への忠誠心からではなく、豊臣側に弟(信繁=幸村)がいるからである。弟を見殺しにするようなことはできない。できるだけ援助してやりたくなる、兄としての情であろう。

信之の子供たち、それから、上杉、それぞれの立場の違い、忠誠心のもちかたが、多様に描かれていて面白かった。

たぶん、今後の展開としては、徳川との和睦、それから、有楽斎の動向、といったあたりが見どころかと思う。徳川との和睦交渉のなかで、信繁の豊臣への忠誠心はどのようなものとして、現れるのだろうか。

語彙・辞書研究会で言いたかったこと2016-11-16

2016-11-16 當山日出夫

語彙・辞書研究会、第50回の研究会に行ってきた。記念のシンポジウムで、テーマは「辞書の未来」。
2016年11月12日。新宿NSビル。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/affil/goijisho/

その質疑の時、私が言おうとして十分に語れなかったことについて、ここに書いておきたい。つぎのようなことを私は言いたかった。

もし、日本語が漢字というものをこれからも使い続けていくとするならば、書体・字体・字形をふくめて、安定した形で見ることのできる紙の辞書は、ある一定の需要、あるいは、必要性があるのではないだろうか。たしかに、世の中の趨勢としてデジタル辞書の方向にむかっていることは否定できないであろう。であるならば、デジタル文字ほど、不安定なものはない。特に漢字について、その書体・字体・字形をきちんと確認することは、ある意味では、デジタルの世界では無理と考えるべきかもしれない。逆に、この可変性のなかに、デジタル文字、デジタルテキストの特性を見いだせるだろう。そのような流れのなかで、安定した文字のかたち(書体・字体・字形)を見ようとするならば、まだ、紙の辞書に依拠せざるをえないのではないか。紙の辞書に文字の典拠がある、この地点から離脱したところに、デジタル辞書の未来は、どんなものになるのであろうか。

限られた質疑の時間のなかであったので、上記のことの半分ぐらいしか話せなかった。次の研究会は、来年の6月。発表を申し込んでみようか、どうしようか、いま思案中である。

佐和隆光『経済学とは何だろうか』2016-11-17

2016-11-17 當山日出夫

佐和隆光.『経済学とは何だろうか』(岩波新書).岩波書店.1982
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/9/4201820.html

いうまでもないことだが、私は、経済学など専門外である。しかし、岩波新書のこの本ぐらいは読んでいる。で、ここで書いておきたいと思っているのは、「パラダイム」という語についてである。

今、「パラダイム」ということばはよく使われると思う。より広義には、思考の枠組みとでもいうような意味で使われるだろうか。もちろん、このことばは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』でもちいられた、科学哲学の専門用語である。

そして、今では、このことば「パラダイム」について論じようとするときには、クーンの本に依拠して述べるというのが、普通になっていると思われる。

トーマス・クーン/中山茂(訳).『科学革命の構造』.みすず書房.1971
http://www.msz.co.jp/book/detail/01667.html

だが、私の経験では、この「パラダイム」ということばを初めて眼にしたのは、クーンの本によってではない。それを引用してつかった、佐和隆光の岩波新書『経済学とは何だろうか』によってである。そして、私の見るところでは、日本の社会のなかで、「パラダイム」ということば多く使われるようになったのは、この岩波新書を契機としてであったように、思うのである。

そこを確認するならば、「クーンの「科学革命」論」として、

「「科学の客観性」への疑問を、もっと鮮明なかたちで提示したのが、科学史家トーマス・クーンである。クーンは、その著『科学革命の構造』(1962年、邦訳みすず書房刊)で、〈範型〉(パラダイム)という概念を提案し、古い〈範型〉が新しい〈範型〉によって、とってかわられる過程を、「科学革命」と呼んだ。」(p.154)( )内はルビ。

そして、パラダイムということば・概念をもちいて、経済学の潮流の変化を説明していく。(経済学の門外漢である私には、そのことについて評価はできないが。)

この本を若い時に読んで、経済学の何であるかは分からなかった(今でも分からないままであるが)、「パラダイム」ということばだけは、はっきりと覚えている。その後、何かのおりに使い初めて、今日にいたっている。

その後、みすず書房の『科学革命の構造』も買って読んだりしたものである。かなり難解な本で、あまりよくわからなかったというのが正直なところであるが。

現在ではどうなんだろうかと思う。「パラダイム」ということばが一般化しているので、特に意識することなく、普通の人は普通にこのことばをつかっていると思う。特に、若い人はそうだろう。もし、ちょっと勉強してみようという気のある若者ならば、直接に『科学革命の構造』を読んでみたりするかもしれない。

だが、学問史……というほどの大げさなものではないとしても、「パラダイム」という概念で、学問・研究の進展の枠組みを考えようとするならば、是非とも『経済学とは何だろうか』をはずすことはできないと思う。少なくとも、私の個人的経験からするならば、日本において「パラダイム」の語がひろまったのは佐和隆光の『経済学とは何だろうか』(岩波新書)によってであると、理解しているからである。

すくなくとも、上記のような観点において、『経済学とは何だろうか』は、読まれていい本だと思っている。

長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

山の風景と水の風景2016-11-19

2016-11-19 當山日出夫

かなり以前のことである。何かの雑誌を見ているときに読んだ。このようなことが書いてあった。

人間には二種類ある。山をみていると心落ち着く人間と、海をみていると心落ち着く人間と。

著者は、私の記憶では、山根基世(NHKアナウンサー)。うろ覚えなのであるが、今となっては確認のしようがない。しかし、いかにも、山根アナの書きそうなことばだという印象を持って覚えている。昔、東京に住んでいたとき、NHKの「関東甲信越ちいさな旅」という番組をよく見ていたものである。

この意味では、私は、はっきりと「山」の人間だなと思う。生まれたのは、海からそう遠くない村であるが、育ったのは、京都の宇治市。家からは、山が見えた。山から登る朝日を見て、山に沈んでいく夕日を見て育った。

ところで、宇治といえば、宇治川……家から歩いていけるところに流れていたのだが、川の印象はさほど強く残っていない。私の原風景にあるのは、やはり山である。それも峨々たる高山というべきものではなく、南山城地域の京都盆地のなだらかな丘陵といってもよい山。そして、そのふもとにある茶畑。

なぜ、このようなことを書いているのかというと、今、読んでいる本が、

川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21105-8/

北原白秋についての評伝である。白秋はいうまでもなく柳河(ママ)の生まれ。その作品には、「水」のイメージがまとわりついている。「水」をめぐって、この本は書かれている。

また、川本三郎には、『大正幻影』もあるが、ここでも、大正時代の作家たちが、東京の隅田川に江戸時代の幻影をみていたことが記される。

川本三郎.『大正幻影』(ちくま文庫).筑摩書房.1997 (原著 新潮社.1990)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032669/

この本については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年11月5日
川本三郎『大正幻影』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/05/8242327

水の風景に郷愁を感じる人もいれば、山の風景にこころなごむ人間もいる。ひとそれぞれと言ってしまえばそれまでだが、『大正幻影』『白秋望景』を読んで、水の風景というものについて、思いをはせている。

また、京都もある意味で「水」の街である。

暮らす旅舎.『水の都 京都』.実業之日本社.2014
http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-42063-9

そして、今の私の住まいの近くにも川がながれている。だが、私の風景は山のある景色に落ち着く。水についての文章をよみながら、つくづく、自分は山の人間なのであるということを感じている次第である。

北原白秋「空に真赤な雲のいろ」2016-11-20

2016-11-20 當山日出夫

川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21105-8/

この本の読後感は、読み終わってから後で別に書きたいが、とりあえず、北原白秋のことについていささか。

私が北原白秋を読んだのは、いつのころだったろうか……たぶん、高校生のころのことであった。岩波文庫の、

『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』

あたりを手にしてのことだったかと思う。そのころは、中央公論の「日本の詩歌」のシリーズもあったころだが、これまで読んだかどうかは、記憶が定かではない。その後、このシリーズは、中公文庫になったりもしているが、買ってはいない。やはり、私の場合、岩波文庫版での白秋ということになる。

これは、今でも持っているはずである。すぐに出てこない、どこにしまったか分からなくなってしまってはいるけれど。とにかく、私は、本をなにがしか処分することはあっても、詩集の類だけは、絶対に手放さなかった。

詩集ほど、物理的なその本のてざわり、感触、活字の印象、などが残るものはないと思っている。萩原朔太郎なども、高校生のころに読んだ文庫本がどこかにまだ残っているはずである。

小説の類は、他の文庫になっても、あるいは、全集にはいっても、さほど違和感なく読むことができる。最近では、キンドルで読むこともある。漱石の作品など、キンドルで読めるものは、買って入れてある。しかし、詩をキンドルで読もうという気にはなれない。

この意味では、テキスト論として、興味深い考察の対象になるにちがいないと思ってはいるのだが、まだ、そこまで、私の考えはおよんでいない。また、このような感覚は、私だけのものかもしれないとも思ったりもするし。

空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。

記憶で書いているので、表記や語句がまちがっているかもしれない。出典もわすれた。だが、いまでも、高校生のころにおぼえた、この詩が、ふと思い浮かぶことがある。(と、ここまで書いて、後から出典と表記を確認してみた。「日本の詩歌」の『北原白秋』、中公文庫版、1974年、によると『邪宗門』である。古本で買った。詩のタイトルは「空に真赤な」。)

このごろの若い人は、詩を読むということをしないのだろうか。

そういえば、中央公論の「日本の詩歌」も絶版になったままである。岩波文庫の『白秋詩抄』『白秋抒情詩抄』も、今は無いようだ。北原白秋はもう古いのか。たぶん、今の若い世代には、古色蒼然とうつるか、あるいは、難解で珍奇なことばの羅列と見えるか。

とはいえ、このとしになって思うことは、詩にこころひかれるということがあるならば、それは、わかいときの特権のようなものである、という感慨である。もう私のとし(還暦をすぎた)になってくると、初期の北原白秋の作品……『邪宗門』など……を読んで、そのことばの魔力とでもいうようなものに魅了されるということはない。

いや、これでも、なにがしか理解はできるつもりである。だが、もはや、初々しい感動、こころのふるえのようなものは消えている。としをとったものだと思う。

白秋の晩年の短歌など、読んでみたくなっている。そんなことを思うこのごろである。

北原白秋「赤い鳥小鳥」2016-11-21

2016-11-21 當山日出夫

北原白秋が作ったこの童謡は、多くの人が知っているだろう。最初だけ引用しておく。(ただ、北原白秋は昭和17年になくなっているので、その著作権保護期間は終了している。)

赤い鳥、小鳥、
なぜなぜ赤い、
赤い実を食べた。

昔、学生のころのこと、この詩について、私は、どこか不気味で怖いところがある、という意味のことを言った。そのとき、まわりにいた仲間、学生たちは、そんなことはないといって、わらって相手にしてもらえなかったのを、今でも、憶えている。

川本三郎.『白秋望景』.新書館.2012
https://www.shinshokan.co.jp/book/978-4-403-21105-8/

を読んでいて、このことを思い出した。この歌を三番まで引用した後に、こうある。

「繰返しの面白さに加え、この歌には単純とは片づけられないかげりが感じられる。ただ鳥がいるのではない。赤い鳥、白い鳥、青い鳥とそれぞれに違った鳥がいて、それぞれに違った色の実を食べた。その後、鳥がどうなるのか。「なぜなぜ」は、鳥が禁断の実を食べたことをあらわしている。本当は食べてはいけない実を食べたのではないか。だから食べたあとに、何か異変が起こるのではないか。この歌には、そんな怖さがある。」(p.241)

いま、としをとってから、あらためてこの歌の歌詞を見て、どこかしら怖さを感じるという印象は消え去っていない。私の感じる怖さは、「禁断の実」というよりも、「因果応報」という方向なのではあるが、しかし、なにがしかの不気味さというのは、どうしても感じてしまう。

これは、考えすぎなのだろうかとも思うが、一方で、川本三郎も書いていることだし、同じように恐怖を感じる人も、他にいるにちがいないと思ったりもする。

このようなことは、論証できる、証明できる、という性質のものではない。だが、証明できないからといって、学問的な見解ではないといえるかとなると、そうでもないように思える。さらにいえば、文学研究、あるいは、文学鑑賞の機微は、このような微細な感覚にあるのだろうとは思う。

はて、これからどう論じていけばよいのであろうか。まあ、私は、文学研究を専門にしているわけでもないし、文芸評論が仕事というわけでもない。気楽な一人の読者にすぎない。とはいえ、いや、だからこそというべきか、ことばを読んで感じるところを大切にしていきたいとは思うのである。

『真田丸』あれこれ「砲弾」2016-11-22

2016-11-22 當山日出夫

『真田丸』2016年11月20日、第46回「砲弾」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story46.html#mainContents

この回のポイントは二つ。あるいは、三つか。

第一に、イエの意識である。兄・信之は、なんとかして信繁(幸村)を援助しようとする。これは、同じ真田のイエの一員としての、自然の情によるものだろう。だが、それを、妻・稲、それから、出浦がとどめる。その理由は、真田のイエの存続のためである。

稲の場合、徳川への忠義とも理解できないことはないが、これまで信之につれそってきて、真田のイエのひとりとして判断しているように思える。

第二に、豊臣が負けるべくして負けることになったという伏線。指揮命令系統が確立していなければ、戦えるはずはない。最後の決断はだれがくだすのか。参謀の役割は誰なのか。総大将は誰であるのか。はっきりしていない。これでは、いくら軍勢が多くても、負けるはずである。

このあたり、最後のシーンで、打ち込まれた砲弾が、豊臣の側にどのような動きをもたらすのか、次回の見どころといったところか。

それから、さらに、第三としては、やはり、信繁の豊臣への忠誠心であろう。信繁は、秀頼にも、あるいは、茶々にも、特に肩入れするということがない。誰の味方でもないようである。自在に、自分の判断で行動している。そして、時として、欺きもする。

そして、それは、豊臣というイエをまもるため。豊臣というイエへの忠誠心であるとしか、いいようがないだろう。だが、単に、豊臣(これを秀頼と茶々とするならば)の安寧をはかるという意味では、ここで和睦するのが最善の策かもしれないが、そうはなっていない。

この意味では、叔父・信尹の諜略を、あっさりと退けるあたりに象徴されている。豊臣のだれの配下というわけでもなく、そのイエのために戦っているように見える。このときの豊臣のイエは、単に秀頼と茶々だけではなく、大阪城にあつまった総員をふくめてのことになるのか。大阪城にあつまった牢人たちをもふくめて、豊臣のイエが意識されているように思える。

以上の三点が、この回で、見るべきと思ったところである。

豊臣というイエ、真田というイエ、そして、信繁の豊臣のイエに対する忠誠心、さらに秀頼と茶々の判断、これが次回以降、どのように描かれることになるのか、楽しみにしている。

呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』2016-11-23

2016-11-23 當山日出夫

呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/

いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413

くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。

そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。

はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。

1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。

白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。

『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。

もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。

それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、

吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/

今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。

吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。

若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。

そうはいっても、たとえば、

竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html

この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。