漱石『三四郎』の野々宮と野々宮さん2016-12-01

2016-12-01 當山日出夫

半藤一利.『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫).文藝春秋.1996 (原著 文藝春秋.1992)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483043

このところ、漱石関係の軽い本を、ぽつぽつと読んでいる。そのなかの一つ。この本の続編『続・漱石先生ぞな、もし』については、すでにふれた。

やまもも書斎記 2016年10月12日
半藤一利『続・漱石先生ぞな、もし』徴兵逃れのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/12/8222873

今回は、最初に出た方の本を読んで気のついたことを、いささか。

『三四郎』について、つぎのように述べてある。ちょっと長くなるが引用する。

 小川三四郎の先輩にして、物理学者である野々宮宗八は、三四郎にとっては、美禰子をめぐっての恋のライバル(?)である。『三四郎』の愛読者には、そんなことは百も承知のことであろうが、では作者の漱石がこのふあーとした三角関係をいかなる工夫をもって描いているか、注目してみる価値がありそうである。

 『三四郎』という小説は原則として三四郎の「視点」によって描かれている。ほぼそれで一貫し、ときどき漱石先生は三四郎を第三人称で描出するが、まずは三四郎の目に映り、耳に聞こえ、心に思ったことが中心となっている。

 そこでライバル野々宮がどう扱われているか、探偵眼を光らせてちょっと注意すると、野々宮荘八どの、野々宮さん、野々宮君、そして野々宮の呼び捨て、とそのときどきで呼称が違うのに気付くのである。いちばん多いのは野々宮さん、つぎに野々宮君。いずれにせよ三四郎の先輩なのだから、これは当然のこと。注目すべきは野々宮と呼び捨てにするとき。

 漱石は、それを巧みに区別して使っているような気がわたくしにはする。思いつきに近く、あまりに確信のない話なんであるが……。たとえばその一例――、

以上、p.162、「野々宮と野々宮さん」から。

そして用例をあげたあとで、さらに次のようにある。

 野々宮と呼び捨てにしている場面が全部が全部そうとばかりいえないが、漱石は、美禰子をめぐって野々宮荘八が三四郎の胸のうちをかき乱すとき、かならず「さん」や「君」を取りはらっている。この点はたしかで、三四郎の妬ける心の動きをそこに示すかのように工夫しているようなのである。

(中略)

 はたして野々宮さんが真に恋のライバルなのかどうか、分明でないところに『三四郎』の面白さがある。それをはっきり示さずに、「野々宮」と呼び捨てにすることで三四郎の一方的な心理の焦りをだす。そんなところに、漱石の見事な小説作法があるように思うのであるが、どうであろうか。まるっきりの誤診かな。

以上、p.164

著者(半藤一利)は、「まるっきりの誤診かな」と言っているが、そんなことはないと思う。

また、最近でた本にも同じ趣旨のことがかいてある。

半藤一利.『漱石先生、探偵ぞなもし』(PHP文庫).PHP研究所.2016 (文庫オリジナル)
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-76659-1

「野々宮と呼び捨てにしている場面の全部が全部そうとばかりはいえないかもしれませんが、漱石は、美禰子をめぐって野々宮宗八が三四郎の胸のうちをかき乱すとき、かならず「さん」や「君」を取り払っている。この点はたしかで、三四郎の嫉ける心の動きをそこに示すかのように漱石先生は工夫しているようなのであります。」(p.192)

以上、長々と、半藤一利の言っていることを引用してきた。これは、次のことを書きたいがためである・・・実は、これとまったく同じ指摘が、日本語学の方面からもなされているのである。

これは長くなるので、明日につづく。

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