車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』2016-12-10

2016-12-10 當山日出夫

車谷長吉.『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫).文藝春秋.2001 (原著 文藝春秋.1998)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167654016

この本も実は「読んでいない本」のひとつだった。上記の書誌を書いて見て、もう20年近く前の本になるのか、とあらためて感じた。第119回の直木賞作品。そして、その著者(車谷長吉)は、昨年(2015)亡くなっている。

文庫版の解説を書いているのは、川本三郎。この解説、『物語の向こうに時代が見える』に収録されている。だから、解説を、この本で先に読んでからということになる。

やまもも書斎記 2016年11月9日
川本三郎『物語の向こうに時代が見える』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/09/8244751

文芸評論風にいうならば、この小説は「私小説」とのこと。たしかに、この小説のストーリーの主な部分と、著者の経歴を見ると、重なるところがある。この本が出たときの印象(報道などによる)としては、関西の陋巷というか、スラムというかの、凄惨な生活を赤裸々に描いた小説、というイメージをつよくもっていた。読んでみて、たしかに、そのとおりの作品ではある。

実際に読んでみて、「私小説」として、「私」のあり方、小説を描く視点のとりかたに、興味を覚えた。

小説における「私」が気になるのは、安藤宏の本のせいかもしれない。

安藤宏.『「私」をつくる-近代小説の試み-』(岩波新書).岩波書店.2015
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/4315720/

やまもも書斎記 2016年6月23日
志賀直哉『城の崎にて』は小説か随筆か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/23/8117250

さて、「私」という観点からこの小説を読むとどうだろうか。「私」の視点から描いたという意味での「私小説」ではない。むしろ、この小説における「私」は自由に位置をかえている。

たしかに、この小説のストーリーは、「私」を中心にして展開していくし、基本的に、「私」の目で見て、体験したことが、描かれている。だが、その視点は、ある一定の位置から、「語り手=私」を見てはいない。時には、深く主人公の心の奥深くにはいりこむこともあれば、時には、俯瞰的に主人公をふくんだ時代の流れや、土地の景観を描写することもある。かなり自在に、その視点を動かしながら、主人公によりそって、物語をすすめていく。

といって、第三人称視点の描写があるというわけではない。表面上は、あくまでも、「私」の語りによってこの小説は構成されている。だが、その「私」の視点の位置が揺れ動いているのを、行間から感じ取ることができる。

だから、この小説が描いている、アマ(尼崎)の陋屋での生活も、一見するとグロテスクな描写ではあるが、その一方で、どこか冷めた目で見ているという印象を与える。これが、この小説の巧みさなんだろうと思う。

いうならば、「私」を見ている「私」の存在である。たとえば、次のような箇所、

「併し私はその日その日、広告取りをすることの中に、私が私の中から流出して行くような不安を覚えた。」(p.21)

このようなメタレベルの「私」というのが、ふと顔を出すところがある。「私小説」というのが、日本の伝統的とでもいうべき近代文学のひとつのあり方であるとして、この作品は、その流れのなかに位置しながらも、一つの物語を小説として虚構している。それは、「私」を主人公とする小説である。

そうはいっても、この小説は、陋巷にあって人生のどん底につきおとされて、そこでうごめくしかない、様々な人間の性(さが)あるいは業とでもいうべきものを、見事に描き出している。直木賞作であることが、うなづける作品である。

この作品の初出は、1996(平成8)年である。まだ、バブル景気の余韻の残る時代であるといってよいか。そのような時代背景のもと、社会から取り残された底辺の人びとの生活を克明に描いている。これが、今の時代なら、ある種の社会問題として取り上げられるようなテーマかもしれない。格差社会からもさらに落ちこぼれた悲惨な生活実態とでもいうことになろうか。

ところで、日本には、底辺社会ルポルタージュとでもいうべきジャンルがある。たとえば、

松原岩五郎.『最暗黒の東京』(講談社学術文庫).講談社.2015
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062922814

これは、明治26年の本である。

『赤目四十八瀧心中未遂』は、「私小説」の流れのなかにありながら、その一方で、底辺社会ルポルタージュの系譜に位置づけることができるかもしれない。私としては、このようなことを思ってみたりもする次第である。