武田徹『日本語とジャーナリズム』 ― 2016-12-28
2016-12-28 當山日出夫
武田徹.『日本語とジャーナリズム』.晶文社.2016
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4100
日本語のジャーナリズム論である。面白かった。
まず、森有正のあたりからこの本の論ははじまる。日本語という言語は、特殊な言語なのであろうか(欧米語と比較してであるが)という問いかけ。このような問いかけが、現代言語学では、あまり意味のないことである、ということは、著者(武田徹)も認識したうえで、その議論をおっている。
そして、本多勝一におよび、さらに、丸山真男へとすすむ。
途中、論点が逆転する。近代の日本語(国民国家日本の言語、国語)が、どのようようにして形成されてきたかを、手際よくまとめてある。このあたりは、非情にバランスのとれた、記述になっていると思う。日本語史の記述としても、妥当なものである。
このような論点をふまえたうえで、さらに問いかける。日本語によるジャーナリズムは可能であるのだろうか、と。主語「I」とは何か。ジャーナリズムの文章の主語は、いかにあるべきか、考察がめぐらされる。
最後の章は、片岡義男について。
私が読んで、この本の言っていることに、なにがしかの説得力を感じるのは、中程で記述される、近代日本語形成について論じた部分があるからである。この部分が、非情にうまくまとめてあり、その後の、日本語とジャーナリズム論の布石になっている。近代日本語というものも、歴史的所産であることをはっきりと認識したうえで、では、そのような日本語をつかってなされる、現代日本のジャーナリズムは、いかにあるべきと論じていく。この論の進め方に、私は、つよく共感するところがある。
たぶん、それは、まがりなりにも、私自身が、日本語研究者のはしくれとして勉強してきた、その視点から読んでいるせいかとも思う。単なる日本語論でもないし、日本語の作文技術論でもない。その日本語という言語が、近代になってから、ジャーナリズムの発達、近代文学の成立とともに、歴史的に形成されたものであるということを、ふまえている。この部分があるからこそ、本書の主要なテーマである、現代日本語においてジャーナリズムは可能であるのか、という問いかけが、意味のあるものとして、私には読める。
ところで、この本、先に記したように森有正の書いたものからスタートしている。私が、森有正の著作を読んでいたのは、高校生のころのことである。「経験」と「体験」の違い、若い時はそれなりに理解していたつもりでいた。いま、森有正は、そう読まれる人ではなくなっているようだ。
探せば、昔読んだ本が残っているはず。探し出してきて、再読してみたくなている。
武田徹.『日本語とジャーナリズム』.晶文社.2016
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4100
日本語のジャーナリズム論である。面白かった。
まず、森有正のあたりからこの本の論ははじまる。日本語という言語は、特殊な言語なのであろうか(欧米語と比較してであるが)という問いかけ。このような問いかけが、現代言語学では、あまり意味のないことである、ということは、著者(武田徹)も認識したうえで、その議論をおっている。
そして、本多勝一におよび、さらに、丸山真男へとすすむ。
途中、論点が逆転する。近代の日本語(国民国家日本の言語、国語)が、どのようようにして形成されてきたかを、手際よくまとめてある。このあたりは、非情にバランスのとれた、記述になっていると思う。日本語史の記述としても、妥当なものである。
このような論点をふまえたうえで、さらに問いかける。日本語によるジャーナリズムは可能であるのだろうか、と。主語「I」とは何か。ジャーナリズムの文章の主語は、いかにあるべきか、考察がめぐらされる。
最後の章は、片岡義男について。
私が読んで、この本の言っていることに、なにがしかの説得力を感じるのは、中程で記述される、近代日本語形成について論じた部分があるからである。この部分が、非情にうまくまとめてあり、その後の、日本語とジャーナリズム論の布石になっている。近代日本語というものも、歴史的所産であることをはっきりと認識したうえで、では、そのような日本語をつかってなされる、現代日本のジャーナリズムは、いかにあるべきと論じていく。この論の進め方に、私は、つよく共感するところがある。
たぶん、それは、まがりなりにも、私自身が、日本語研究者のはしくれとして勉強してきた、その視点から読んでいるせいかとも思う。単なる日本語論でもないし、日本語の作文技術論でもない。その日本語という言語が、近代になってから、ジャーナリズムの発達、近代文学の成立とともに、歴史的に形成されたものであるということを、ふまえている。この部分があるからこそ、本書の主要なテーマである、現代日本語においてジャーナリズムは可能であるのか、という問いかけが、意味のあるものとして、私には読める。
ところで、この本、先に記したように森有正の書いたものからスタートしている。私が、森有正の著作を読んでいたのは、高校生のころのことである。「経験」と「体験」の違い、若い時はそれなりに理解していたつもりでいた。いま、森有正は、そう読まれる人ではなくなっているようだ。
探せば、昔読んだ本が残っているはず。探し出してきて、再読してみたくなている。
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