『「ひとり」の哲学』山折哲雄(その二)2017-01-06

2017-01-06 當山日出夫

昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年1月5日
『「ひとり」の哲学』山折哲雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/05/8303134

読んでいて、私が付箋をつけた箇所について、いささか。

「法然や親鸞、道元や日蓮の〈思想の本質〉が、今日の日本においては少数の〈知的エリート〉をのぞいて、ほとんど何の影響ものこしてはいないということだ。なるほどその後、法然や親鸞を開祖とする教団は社会的な一大勢力を形成し、同じように曹洞宗教団や日蓮宗教団も広範な民衆のあいだに教線をひろげていった。しかしそれは、けっして開祖たちの思想そのものを起動力にして発展していったものではない。開祖たちの信仰の灯を唯一の導きとして拡大していったわけでもなかった。/大教団として発展が可能になったのは、ひとえに先祖供養を中心とする土着の民間宗教がそれを支えたからである。」(p.175) ※〈 〉内、原文傍点。

これは、そのとおり。日本の仏教史の常識的な知識といっていいかもしれない。

ただ、一般的には、教科書的な知識として、これらの教団・宗派の開祖の登場と同時に、社会的影響力をもつ大きな教団が形成されたと理解されているのかとも思う。この意味においては、ここのところを、もう少し掘り下げて論じておいてほしかった気がする。先祖供養と日本仏教の関係は、非常に重要な課題である。(たぶん、このあたりの記述のものたりなさが、この本の評価を下げる要因になっているのかとも思ったりする。)

また、特に、親鸞や日蓮の、近代日本仏教における理解というのは、近代仏教史を考えるうえで、はずすことはできないであろう。

島薗進・中島岳志.『愛国と信仰の構造-全体主義はよみがえるのか-』 (集英社新書) .集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0822-a/

そういえば、この本については、ちょっとだけ言及しながら、その後、書いていなかった。

やまもも書斎記 2016年6月9日
安丸良夫『神々の明治維新』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/09/8107799

それから、現代における、道元の理解、特に、『正法眼蔵』の理解については、昨日も書いたが、唐木順三の仕事がある。山折哲雄が、唐木順三の本を知らないでいたとは思えないので、やはりこの本は「無用者」として書いた本かという気がしてくる。