『アンナ・カレーニナ』トルストイ(新潮文庫)2017-01-07

2017-01-07 當山日出夫

トルストイ、木村浩(訳).『アンナ・カレーニナ』(上・中・下)(新潮文庫).新潮社.1972(2012改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206001/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206002/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206003/

去年の夏休みに、『戦争と平和』を読んだ。

やまもも書斎記 2016年9月9日
トルストイ『戦争と平和』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/09/8175825

この本も再読である。自分の冬休みの宿題として読んでみた。これも、新しい本で読んだ。改版されて、活字がきれいになって大きくなっている。読みやすい。

この作品についても、世界文学の名作として、いまさら私が何ほどのことを付け加えて書くこともないだろうと思うが、今、思っていることをいささか。

昨年末(2016)、NHKのBSで、「映像の世紀プレミアム」を再放送していた。朝、『ごちそうさん』(再放送)が終わって、テレビをそのままにしていたら始まったので、見てしまった。二日にわたって、戦争と芸術、戦争と科学、がテーマであった。以前に放送した「映像の世紀」(新・旧)をあわせて再編集したもののようである。

30日、芸術をあつかった回であったと憶えている。トルストイが登場していた。ナレーションでは、トルストイのことばとして、芸術とは……と語っていた。(漫然と見ていて、その内容は記憶していないのだが。)

その時、テレビを見ながら感じたことは、トルストイというのは芸術家なんだな、ということ。これは、当たり前すぎることのようかもしれないが、意外と現代では、盲点になっている発想かもしれないと思った。

芸術といって、美術や音楽は思い浮かべる。だが、文学がはいるだろうか。私の印象では、近年、この傾向は希薄になっているように感じる。文学、文学者、として思うかべるのは、主に小説、小説家、であろう。そして、小説と親和性の高いのは、芸術家、であるよりも、思想家、であるように思われる。

これは、私の思い込みかもしれないが、今日の文学は、芸術よりも思想に近い。

たとえば、昔出ていた本、中央公論社の「日本の名著」シリーズ。このなかに、夏目漱石、森鴎外の巻がある。つまり、文学としてあつかっているのではなく、思想をとりあげている。日本の近代に対する批判的まなざしという点からして、漱石の文明批評などは、思想としてとりあげるにふさわしいとは思う。また、このようにもいえようか、ノーベル文学賞の小説家である大江健三郎を、芸術家というのがふさわしいだろうか。

素朴な印象として、小説というのは、文学であり、それは、芸術であったのだな、と、テレビをみてふと思ったのである。現代の日本では、小説は、エンターテインメントであり、そして、思想である。

そして、この『アンナ・カレーニナ』である。現在での読後感をといわれれば、芸術としての小説、その完成されたかたち、とでもいえようか。

年をとってきたせいであろうが、小説を読んでも、ただストーリーを追っていればよい、というのではもったいない、という気がしてきている。その文章のことばの表現をかみしめながら、ページをめくっていく。そのような読み方がしたくなってきている。

ただ、ストーリーを追うだけという、若い時の読み方とは、ちがった印象がある。読後感として、ありきたりであるが、芸術としての小説を読んだという気になった。無論、この小説、および、トルストイについて、その世界観、人生観、宗教観といったものを取り出して論じることはできるであろう。だが、何よりも、読後感として残る、芸術的感動としかいいようのない感覚、それが、翻訳を通じてであれ、味わいうるということは貴重なことであると思う。

芸術的感動……芸術としての小説を感じる感性……これこそ、人文学の基底をささえる感覚として重要なのではないかと思う。これは、アンナ・カレーニナのテキストのデジタル版があるとかという以前の、人間と文学とのかかわりにおいてである。