『沈黙』遠藤周作(その一)2017-01-27

2017-01-27 當山日出夫

遠藤周作.『沈黙』(新潮文庫).新潮社.1981(2003改版) (原著 新潮社.1966)
http://www.shinchosha.co.jp/book/112315/

私の記憶では、たしか、学校の教科書に採用されていたように憶えているのだが、どうだろうか。ともあれ、高校生ぐらいの時に、この作品の全部を読んでいる。上記の書誌を記してみて、新潮文庫の旧版が出たときは、もう大学生になってからになるので、単行本で買って読んだのだろうか。どうも、そのあたりの記憶があいまいである。

ともあれ、私の世代ぐらいだと遠藤周作は、読んでいる本の中にはいっていたものである。

この『沈黙』である。今般、映画が作られたということで、話題になっているようだ。そのこともあって、久しぶりに、昔、読んだ本を読み直したくなって読んでみた。

今日、ここで書いておきたいことは……かつて、私が、この本を読んだとき、キリスト教からの「転び」ということと、共産党からの「転向」ということを、ダブって理解していたように憶えている。

絶対の真理としての「神」、そして、それを裏切ること。これは、まさに、日本の近代史の中であった、共産主義への信奉と、その弾圧、「転向」ということと、重なっていた。いや、そのように、理解して読んでしまった、というべきであろうか。

このような読み方が、この作品の理解として正当なものではないともいえよう。しかし、ある時代、この作品は、このように理解され受容されていたのである。このことは、一般的に書く文学史や、文芸評論では、論じられないことがらかもしれない。しかし、そうであったということは、少なくとも、私個人の経験にてらして、言ってもよいと思う。

だが、いま、この時代になって、1989年のベルリンの壁の崩壊以降、世界の情勢は大きく変わった。もう、共産主義への信奉(ほとんど、それは「信仰」に近いともいえよう)は、終わりを告げた。ようやく、『沈黙』という小説が、その本来の作者の意図、宗教をあつかった文学として読むことのできる時代になった。こう考えていいだろう。

では、宗教をあつかった文学としてこの小説の問いかけるものは何であるのか、それは、明日、書くことにする。

追記 2017-01-28
つづきは、
やまもも書斎記 2017年1月28日
『沈黙』遠藤周作(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/28/8337757