『おんな城主直虎』あれこれ「検地がやってきた」2017-02-21

2017-02-21 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年3月18日、第7回「検地がやってきた」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story07

前回は、
やまもも書斎記 2017年2月14日
『おんな城主直虎』あれこれ「初恋の分れ道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/14/8360887

今回も、ネコがでていた。和尚にだかれていた。

この回の見せ場は、鶴・亀・おとわ(次郎)の、それぞれの思いの交錯する対話のシーン。それから、最後の検地の場面だろう。

「指出」(さしだし)については、番組中で解説があった。ジャパンナレッジでこのことばを検索してみると、「指出検地」(さしだしけんち)の項目がある。国史大辞典。この解説通りに、「指出」だけでことが終わるなら、別に問題はない。そこを、無理をして、隠し里を隠し通そうとするから、まあ、ドラマになる、ということか。

それにしても、隠してあった田畑が、「南朝の……」のいいわけで、無事に納得してくれたのが、どうも解せない。このあたり、ちょっと無理があったように思う。ここは、鶴が頑張って隠し通したというストーリーの運びの方が自然であったように感じたが、どうであろうか。

おとわ(次郎)の観音経の読経も、そんなに効果があったとはおもえないし。

それから、不気味な存在なのが、やはり、徳川家康(まだ、その名前ではないが)。今後、どのように、井伊の家とかかわるのか、興味深い。『真田丸』とは、どのようにちがう徳川家康を描くことになるのだろうか。

鶴・亀、それから、おとわ(次郎)のエトスはなんだろうかと、考えてみたりもする。井伊のイエをまもることか。井伊谷の山里にたいする、パトリオティズムか。これまでのところ、井伊のイエへの忠誠心というものは、そんなに出てきていないように見ている。それよりも、鶴と亀の、おとわへの思いの方が強い。

さて次回も、ネコは出てくるだろうか。

追記 2017-02-28
この続きは、
やまもも書斎記 2017-02-28
『おんな城主直虎』あれこれ「赤ちゃんはまだか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/28/8379090

『誰もいない夜に咲く』桜木紫乃2017-02-22

2017-02-22 當山日出夫

桜木紫乃.『誰もいない夜に咲く』(角川文庫).角川書店.2013 (『恋肌』.角川書店.2009 改題、改稿)
http://www.kadokawa.co.jp/product/321206000249/

桜木紫乃の北海道を舞台にした短編小説集。この本、最初『恋肌』のタイトルで、単行本で出ていたものに、文庫化にあたり、「風の女」を追加して、改題、改稿したもの。

この短編集で気にいったのは、「絹日和」。着物の着付けの職人が主人公。その自分の職業にかけた意地、あるいは、プライドといった方がよいか、のようなものが、見事に描かれている。

桜木紫乃の作品、特に、短編に出てくる女性は、どの作品でも、決して幸福とはいいがたい。何かしら、人生の影のようなものを背負っている。にもかかわらず、自分のおかれた境遇のなかで懸命に生きようとしている。

そのせいだろうか、「絹日和」のような、職人を主人公とした作品に、自分ひとりで生きていくことの、つらさ、せつなさ、しかし、その一方での矜恃とでもいうべきもの、それが、ひしひしと伝わってくる。

また、これまで読んできた桜木紫乃の作品のように、北海道の風土の描写と切り離すことはできない。この短編集においても、描かれている北海道は、決して明るくない。そして、象徴的なのは、やはり、空の色と、海の色。

付箋をつけた箇所、

「健次郎の肩ごしに、青色の絵の具で塗りつぶした空がある。」(p.59)

「アーケード商店街を抜けて少し走ると、青よりは黒に近い色の海原が見えてきた。」(p.145)

文庫本の解説を書いているのは、川本三郎。この作品においても、時代と、土地、風土、というべきものを読み解いている。21世紀になって、不景気と過疎とともに生きていかなければならない、北海道の人びとの生活のありさまが、この短編集のどの作品からも読み取れる。

おそらく、北海道という土地にこだわって書いてある小説であるが故に、そこに生きる人びとを通じて、この作品は、ある種の普遍性を獲得しているといってよいだろうか。決して幸福とはいえない人生のなかにあって、あくまでも自己にしたがって生きようとする人間の生活が、この小説から読み取れる。

文学が、ある時代とともにあるものであるとするならば、この作品は、現代という時代、そのあり方の一部かもしれないが、確実にその一部を描ききっている、そのような作品として存在するといってよいであろう。

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男2017-02-23

2017-02-23 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

杉山隆男の「兵士シリーズ」の最新刊であり、また、これが最後であるらしい。

「兵士シリーズ」は、いくつか読んできている。自衛隊の実際の有様を、現場の「兵士」の日常の任務、生活に密着して描いたルポルタージュとして、非常にすぐれた仕事だと思っている。本の帯をみると、開始から24年とある。20年以上前、今の私の住まいの自分の部屋で仕事をする前のこと、仮住まいをしていた座敷(そこに本棚などおいて書斎がわりにしていた)で、読んだのを憶えている。

見てみると、「兵士シリーズ」、初期のものは読んでいるが、最近のものは読んでいない。新聞の広告など、見落としていたらしい。これを機会に、読みそびれた本を読んでおきたい気になっている。いや、最初のものから、再読してみたい気になった。

この『兵士に聞け 最終章』である。この本で主に描かれるのは、日本の自衛隊のおかれている最前線、中国との対峙である。無論、今、日本と中国とは、戦争しているわけではない。しかし、その間に軍事的な緊張がまったく無いかといえば、それは嘘になる。尖閣諸島をめぐって、一触即発とまではいかないにしても、それにいたる寸前の緊張状態にある。それを、著者は、空と海の防衛に密着して描いている。

まず、沖縄のF15戦闘機のスクランブル。2012年に、日本政府が尖閣諸島を国有化してからというもの、沖縄方面における国籍不明機の接近、侵犯が急増したという。それに24時間体制で対応している航空自衛隊の活動が密着して語られる。その自衛隊員にとって、「死」は身近な存在だと、さりげなく書いてある。

ある若いF15パイロットは、こう言う。

「思いますよ。きょうはいくら呑んでも、あした死ぬことはないからと……」
(p.52)

また、国籍不明機の侵入は、沖縄の慰霊の日(6月23日)であろうと、おかまいないくやってくる。個人的な感想を記せば、中国にとって、沖縄の慰霊の日など何の関係もない、ということなのだろう。

そして、海。ここで語られるのは、海上自衛隊のP-3C。もはや旧式になってきたとはいえ、現役で、対潜哨戒のみならず、その他、海上の守りの役目をになっている。そして、不審船をみつけるのは、最新鋭の電子機器によるのではなく、人間の目、その職人技とでいうべき技術によっている。

私の読後感としては、まさに「最前線」ということばが思い浮かぶ。このことばは、著者はつかってはいない。だが、このように感じてしまう日々の任務を遂行している人たち(自衛隊員)がいることは、確かなことである。

安保法制が成立してしばらくたつ。今、国会で議論されているのは、南スーダン派遣の自衛隊の活動。海外での自衛隊の活動に目をむけることも必要かもしれないが、この平和な日常の日々において、スクランブルの、海上監視の任務を黙々とこなしている、自衛隊員がいることを、忘れてはならない。日本の、特に、沖縄、東シナ海は、最前線といってもよいのである。

さらに、日本において、自衛隊はいかにある存在なのか、いろいろ考えさせられるが、それは明日のことにしておきたい。

追記 この続きは、
やまもも書斎記 2017年2月24日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/24/8373463

『兵士に聞け 最終章』杉山隆男(その二)2017-02-24

2017-02-24 當山日出夫

杉山隆男.『兵士に聞け 最終章』.新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/406207/

この本を読んで印象に残ったことをいくつか。昨日のつづきである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

二点ほど、思ったことを書いてみたい。

第一に、徴兵制である。

この本の第三章「オンタケの頂き」では、2014年の御嶽山の噴火災害救助の様子が語られる。ここで、著者は、長野県の第13普通科連隊が、その任務にあたったことを記す。この部隊は、山岳地域での活動に特化した訓練をうけている。

自衛隊は、各地にあるが、それぞれの地方にあった特殊な訓練をおこなっている。たとえば、八甲田山では、第5普通科連隊が、今でも冬季の雪中訓練をおこなっている。雪のなかでの行動については、エキスパートであるといってよい。

日本の軍備、安全保障、憲法などについて議論されるとき、必ず出てくるのが徴兵制のことである。本書の記述をふまえて考えるならば、理念として徴兵制を論じるのはいいだろう。例えば、井上達夫のようにである。

だが、これも、現実的な、自衛隊の訓練の場に即して、そこで「兵士」が何を行っているのかをみれば、そう簡単にいえるものではない。昔の軍隊でいえば歩兵である普通科であっても、その訓練は、その地方の状況に即して、過酷とでもいうべきものである。簡単に、若者をつれてきて訓練すればよいという程度のものではない。

徴兵制を理念として語るのはそれでいいのかもしれないが、現実に、自衛隊の「兵士」たちが、どのような訓練をうけ、どのような任務にあたっているのか、現場に即して考えてみれば、そう軽々と言えるようなことではないことがわかる。実際に自衛隊員がどのような日常の訓練、任務をになっているか、その実際を見た上での議論でなければならない。

第二に、尖閣諸島の問題である。

本書のテーマからはちょっとはずれる。しかし、本書の第一、二章が、沖縄、尖閣での、対中国の活動を描いていることをふまえれば、やはり考えて見なければならないだろう。

アメリカの大統領が、トランプに替わった。国防長官が日本にやってきている。そのとき、明言したこととして、尖閣諸島も、日米安保の対象であるということがあった。この件は、ニュースなどでもおおきく報じられていた。

対中国、という意味では、これを大きく報道することに意味があると思う。

しかし、日本の立場として、尖閣諸島が我が国固有の領土であるとするならば、その防衛は、まず、我が国の問題である。個別的自衛権で、我が国において対処すべき事であるのが基本だろう。

では、それに対応できるだけの装備、準備があるのか、ということが、問題になる。このことに、本書は、直接に答えることはしていない。しかし、本書を読んだ延長には、この問題があることは確かなことである。はたして、日本だけで、中国の侵略に対応できるのであろうか。

ここは、中国の海洋進出といった一般論で論ずるのではなく、具体的に、日本の自衛隊で、尖閣諸島を守れるのか、現実的な議論が必要だろう。その議論をする立場に、日本はある。このことを否応なく認識させられるのが、本書の読後感でもある。

以上の二点が、本書を読んで、思ったことである。

なお、さらに書いておくならば、この「兵士シリーズ」がはじまってから、自衛隊への取材が非常にきびしくなっていると、筆者は記している。シリーズがはじまったころは、かなり自由にできた隊員へのインタビューも、本書を書くときになると、きわめて厳しい制約のもとにおこなわざるをえなくなっているとある。

これは、何故なのだろう。一般の印象としては、自衛隊は、以前よりも、現在の方が、広報活動には力をいれているように見える。だが、それは、表面だけのこと。実際の自衛隊の活動、任務にかかわることになると、突然、堅くなる。それだけ、現在の日本において、自衛隊の置かれている立場が変化したということになる。

「兵士シリーズ」がはじまったころは、東西冷戦がおわったとはいえ、まだ、基本的にその枠組みのなかにあった時代であった。それが大きくかわるのは、2001年のアメリカの同時多発テロ以降の国際情勢、それから、アメリカ、ロシア、EUなどの動向がある。それをふまえて、自衛隊の海外活動の本格化もある。

このような情勢のなかにあって、自衛隊は、より開かれた存在でなければならないと思われるのだが、実際に取材にあたった著者の感じるとことは、その反対のようである。

日本において、自衛隊がどのような存在であるか、それを理念的に考えることも必要だろう。例えば、憲法論議。しかし、その一方で、現実に存在する自衛隊が、何をしているのか、どのような組織であるのか、そして、それは、国民に対してどのようであるのか……このような観点からも、常に検証されなければならない。この意味では、この20年以上にわたってつづいてきた「兵士シリーズ」は貴重な記録になっていると思うのである。

『慟哭』貫井徳郎2017-02-25

2017-02-25 當山日出夫

貫井徳郎.『慟哭』(創元推理文庫).東京創元社.1999
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488425012

初出は、1993年の鮎川哲也賞候補。それを、文庫本化したものということになる。

あまりにも有名な作品であるが、なんとなく手にしそびれてきて今にいたってしまった。おくればせながら読んでおこうと思って読んだ次第。で、結果としては、やはり、世評にたがわず、読むに値する傑作である。

ただ、ミステリとして見たとき、ちょっと弱いと感じる点がないではない。しかし、それは、瑕瑾というべきものだろう。私としては、文句なしの傑作としておきたい。

東京近郊でおきる、幼女連続誘拐殺人事件。その捜査にあたる警察。そして、それと平行して語られる、ある男のストーリー。ふとしたことから、新興宗教に入信して、そのなかにのめりこんでいく。この二つの物語が平行して語られ、最後に合流するところで、「真相」にたどりつく。この意味では、ミステリの語りの常道をいっている。

この作品、北村薫が絶賛したよし。その観点からみると……本書のタイトル「慟哭」がそれを表している。なぜ、犯人はその犯罪を犯すにいたったのか、この経過が、本書の最終的なメッセージになる。

そして、それが説得力あるものとして描けるかどうか、そのように読めるかどうか、ここの解釈が、この作品の評価を分ける点になる。

ただ、蛇足を書けば……この作品の発表は、1993年の鮎川哲也賞において。新興宗教の起こした社会的事件といえば、言うまでもなく思い浮かぶのが、オウム真理教の事件。地下鉄サリン事件のあったのは、1995年。この作品が出てからのことになる。ここのところだけは、留意して読んだ方がいいかと思う。もし、1995年以降に書かれた作品なら、もうちょっと違ったものになったにちがいない。

さらに余計なことを書いておけば、トリックの基本はだいたい見抜ける。近年の日本のミステリになじんだ読者なら、だいたいの見当がつくはずである。だが、だからといって、この作品の評価が下がることはない。それは、やはり、犯行にいたる動機をどう描くか、というとことにかかわっている。これに納得する人は、高い評価をあたえることになるだろう。

貫井徳郎は、なんとなく読まずにきた作者なのであるが(たまたまである、別に嫌っていたわけではない)、これをきっかけにして、他の作品も読んでおくことにしようと思っている。

『千羽鶴』川端康成2017-02-26

2017-02-26 當山日出夫

川端康成.『千羽鶴』(新潮文庫).新潮社.1989(2012改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100123/

この作品の成立の事情は、かなり複雑なようだ。連作短編ということで発表していったもの。昭和27年には、『千羽鶴』として、まとめられていた。その後、続編を書き続け、どこで終わるともなく、終了している。作者としても、ひとつの長編を書くというよりも、連作短編を書き継いでいって、あるところまでくれば、それで終わり、というようなことだったらしい。このようなこと、この新潮文庫本の解題(郡司勝義)に概略がしるしてある。

とりあえずは、『千羽鶴』として発表されたところだけを、ひとつの作品と見なしてもいいのだろう。このあたり、作品という「単位」が不明瞭である。これは、ある意味では、川端康成の文学創作の方法とでもいうべきことであるのか。

新潮社のHPには、つぎのようにある。

「父の女と。女の娘と――。背徳と愛欲の関係を志野茶碗の美に重ねた、川端文学の極致。」

まさにこのとおりの小説。

そのせいであろうか、『山の音』で感じたような、文学的感銘は、この小説にはない。いわば、登場人物の思いに共感するとでいおうか、そのような要素は、この小説には感じない。……まあ、普通に考えて、『山の音』の家庭の有様を我が身になぞらえて想像することはできても、『千羽鶴』のような人間関係を、実際に経験するような人間は、決して多くはないはずである。

しかし、そうはいっても、読んでいて、ふと、小説の琴線に触れるとでもいおうか、ああ、ここは川端文学の美学だな、と感じるところがいくつかある。

「夫人は人間ではない女かと思えた。人間以前の女、あるいは人間の最後の女かとも思えた。」(p.80)

「夫人が菊治に父の面影を見て、あやまちを犯したのだとすると、菊治が文子を母に似ていると思うのは、戦慄すべき呪縛のようなものだが、菊治は素直に誘い寄せられるのだった。」(p.99)

それから、次のような描写。

「夫人の骨の前で眼をとじた今、夫人の肢体は頭に浮んで来ないのに、匂いに酔うような夫人の触感が、菊治を温かくつつんで来るのだった。奇怪なことだが、菊治には不自然なことでもないのは、夫人のせいでもあった。触感がよみがえって来ると言っても、彫刻的な感じではなく、音楽的な感じであった。」(p.88)

自分が関係をもった女性が死んで、その骨を前にしての感想である。このような文章に接すると、はっとする。共感するというのではないが、想像の世界のなかで、このようなこともあり得るのか、その極致とでもいうべきところを、なんとなく感じる。このようなものこそ、文学的感性、美的感覚というのであろう。

文学といっても、それが書かれた時代、土地、社会によりそうようなものもあれば、それらから超然として、美的境地を描き出すようなタイプの作品もある。さしずめ、川端康成はその典型とでもいうべき作家であろう。川端康成の小説から、その「時代」を読み解くことはできない。しかし、その「美」の世界を鑑賞することはできる。いや、そのようにしか読めない、といった方がいいだろうか。

この『千羽鶴』に描かれたような「美」の世界に共感するもの、それは、さらにいえば、時代や民族といったものをつきぬけてしまう。いわば、普遍的な世界に達しているとでもいえようか。この意味において、川端康成が、ノーベル文学賞を受賞したということは、理解できる。

私のわかいころ、学生のころ、川端康成は、まだ現役の作家だった。ノーベル文学賞の受賞のことは記憶にある。そのこともあって、その作品のいくつかは読んだものであるが、『伊豆の踊子』とか『雪国』ぐらいは、なんとか理解できても(そのつもりになることはできても)、『山の音』などは、はっきりいってわからなかった。それが、ようやく、このごろ……自分も年をとってきたせいなのであろうが……『山の音』のよさを感じることができるようになった。しかし、『千羽鶴』の世界になると、自分の文学的感性を極限にまではりつめて読まないと、感じ取ることができない。だが、その世界の一端なりとも、感じ取れるかなという気はしている。たとえていえば、川端康成の「美」の世界からの木漏れ日の影を、かすかに感じ取る、とでもいえばいいだろうか。

だが、それは、「背徳の美」でもある。

年をとって、ようやく川端康成の「美」の世界を感じ取れるようになってきた、あるいは、逆に、年をとったにもかかわらず、まだそれを感じ取ることができる。川端康成の作品に「美」を感じ取れるうちに、本を読んでおきたいと思う。

『出発は遂に訪れず』島尾敏雄2017-02-27

2017-02-27 當山日出夫

島尾敏雄.『出発は遂に訪れず』(新潮文庫).新潮社.1973 (新潮社.1964)

このところ、島尾敏雄の本など読んでいる。『狂うひと』(梯久美子)を読もうと思ってのことである。

やまもも書斎記 2017年1月26日
『死の棘』島尾敏雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/26/8333549

やまもも書斎記 2017年2月12日
『魚雷艇学生』島尾敏雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/12/8358121

それから、その妻(島尾ミホ)の本。

やまもも書斎記 2017年2月10日
『海辺の生と死』島尾ミホ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/10/8356483

この作品「出発は遂に訪れず」は、『死の棘』とならんで、島尾敏雄の代表作といってよい。太平洋戦争末期の、特攻隊(震洋)の隊長としての経験をつづっている。

短編集である。「島の果て」(昭和21年)からはじまって、「出発は遂に訪れず」(昭和37年)までをおさめる。解説にしたがうならば、これらの作品は、題材やテーマにより、多岐にわたる。特攻という戦争体験をあつかったものもあれば、『死の棘』に通じる、妻や子供のことを描いたものもある。あるいは、自分自身を漂泊者、亡命者のごとくみなした紀行文的な作品もふくむ。島尾敏雄の文学の種々の側面を、この短編集に読み取ることができよう。そして、それらは、おそらくは、『死の棘』に結実していくものとしてある、といってもよい。

ただ、上記の妻・島尾ミホの書いた『海辺の生と死』とあわせて読むならば、冒頭におかれた最初の作品「島の果て」、そして、最後の作品「出発は遂に訪れず」が、興味深い。

太平洋戦争末期の奄美大島、そこに配属された特攻隊(震洋)の隊長(作者)と、島の娘との出会い……それを、男(作者)の側から描いたものが、本書であるとするならば、女(後に妻となる)の側から描いたものが、『海辺の生と死』に所収の「その夜」ということになる。

私の場合、たまたま、島尾敏雄の作品の方から先に読むことになった。これが、逆だったら、どんな印象をいだくことになったろうか。ともあれ、特攻をひかえた兵士のもとに、死を覚悟して、夜しのんで会いにいく女の姿は、どちらの側から描いても凄絶である。そして、その描写は、それぞれ微妙にちがっている。これは、男性の立場と、女性の立場の違いもあるし、同じことを題材に描いていながら、昭和21年に書いたものと、昭和37年に書いたものの違いもある。

これについて、「事実」がどうであったかを詮索するのは、文学を読むということからは無意味なことなのだろうと思う。どの作品も、その作品の書かれた視点からみれば、「真実」を描いているものである。

整理してのべるならば、この『出発は遂に訪れず』という短編集は、二つの観点から読むことができよう。

第一は、最終的に『死の棘』に結実していくことになる、いろんな要素をふくんだ短編小説群として、読む。

第二は、妻・島尾ミホの書いた作品と対照させて、それを後の夫の立場から見た作品として、読む。

この二つの観点から、この短編集を読み解くことができようか。

感想めいたものをしるすならば、島尾敏雄の眼は、どこか冷めたところがある。それに対して、島尾ミホの文章は、情熱的である。このような視点のちがいが、後の『死の棘』にどう描き出されるのか、そう考えて見ることもできよう。

ともあれ、現代日本文学のすぐれた作品として、これらの作品があるということを、堪能すればそれでいいのだと思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「赤ちゃんはまだか」2017-02-28

2017-02-28 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年2月26日、第8回「赤ちゃんはまだか」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story08/

前回は、
やまもも書斎記 2017年2月21日
『おんな城主直虎』あれこれ「検地がやってきた」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/21/8370808

今回もネコがでてきていた。カゴのなかにはいって、おとなしてく、まわりの人間を見回していた。

この回を考えるには、まず、次回を予想してから、ということになろうか。次回は、「桶狭間に死す」……つまり、今川義元が死んでしまうことになる。では、これまで、今川の支配下にあることで、安寧をたもってきた、井伊谷の井伊の一族は、どのようになるのか。それを支えるもの……エトス……としての、井伊のイエ一族の意識、とでもいうものが描かれていたように思ってみた。それを象徴するのが、跡継ぎとなる、次の子供、つまり、赤ちゃんはまだ生まれないのか、ということになる。戦国の世がどのようになるにせよ、自分たちは、井伊の一族である、これが、これからのドラマの基軸になることである、と見たのだが、どうだろうか。

徳川家康(まだ、その名前になっていないが)が、将来の井伊の一族の命運を握る人物として、出てくることになる。戦国の時代の最後には、家康が勝利することになり、そして、その恩恵を井伊もこうむることになる、我々は歴史の結果を知っている。そのうえで、どのような家康と、井伊の一族との関係がこれから展開することになるのだろうか。

今回の見せ場としては、次郎法師と、しのの、やりとり、ということになるだろうか。最終的に、次郎法師が、直虎となって家督を継ぐことになることの伏線になっているのだと思う。

そして、気になるのは、次回もネコが出てくるかどうか。

追記 2017-03-07
この続きは、
やまもも書斎記 2017年3月7日
『おんな城主直虎』あれこれ「桶狭間に死す」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/07/8395053