本を読む時間2017-03-18

2017-03-18 當山日出夫

学生のころの思いでである。ふと思い出したこと、今でも憶えていることを書いてみたい。

ある先生……イギリスの経済史、社会思想史が専門だったと憶えている……のことである。

教養の学生のとき(日吉で一年のとき)、イギリスの政治社会思想の講義に出た。そこで、ホッブズとか、ロックのことを学んだのであった。が、それよりも、先生が講義の雑談のなかで、こんなことを言っていた。

大学の教養課程の授業の意義についてである。どんな話しであったか、おぼろにしか記憶していないが、今でいうリベラル・アーツとしての基礎教養の重要性ということを、話していたように憶えている。そのとき、イギリスのことを勉強するのには、英語が必要になる。だが、英語を勉強したければ、その専門学校に行けばいいのである。大学の講義は、そのためにあるのではない。このことは、はっきりと憶えている。

今はどうだろうか。大学の英語の授業は、実学の方向を向いている。TOEIC何点というのが、具体的な目標にかかげられたりしている。

大学によっては、英語を担当する教員のHPでの紹介に、TOEICで何点をもっているとか、書いてあったりする。こんなのを見ると、私は、心底うんざりとするのだが。

それから、その先生が、学内のある雑誌だっただろうかに書いていたことがある。次のような内容である。

留学していたとき(たしかイギリスだったと思うが)、そこで、ある本を読んでいた。その学問分野の基礎資料というべき本である。そのとき、現地、留学先の研究者の言うのには、そんな本は日本にでもあるだろう。どうして、ここで読んでいるのか。それに対して、その先生は、こうこたえた。もちろん、日本にもその本はある。しかし、ここ(留学先)にあって、日本にはないものがある。それは、本を読む時間である、と。

このエピソード、何故か、印象深く憶えている。私の学生のころであるから、今よりはるかに大学というところはのんびりしていたものである。

だいたい、新学期になって、最初から授業する先生など、ほとんどいなかった。休講が当たり前だった。それが、今では、毎回90分、15回、それに、試験をしないといけなくなっている。

そのような時代にあっても、研究者として、本を読む時間を大切にするということは、あったのである。その時代なりに、大学の仕事や講義などもあったのだろう。今よりはのんびりしていたかもしれないが、それでも、雑用におわれて本を読む時間がない、という気分があったのかもしれない。

本を読むのに、なにがしかのお金は必要になるだろう。それから、ある程度の、安定した社会的地位というものも、必要かもしれない。だが、それらがあるとして、一番肝心なのは、本を読む時間である、という感覚は、私は、学問の基本として大事にしたいと思う。いや、この年齢になって、そのような必要性を、痛感するようになってきた、ということである。

実際にどの程度、本を読む時間を確保できるかは、人のおかれた境遇によってちがう。しかし、それが、何よりも貴重なものであるという感覚だけは、持っておきたいものである。

このようなことを思い出す、考えるというようになったのは、それなりに、私も年をとってきたことなのかとも、思ったりしている。

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