『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その三)2017-03-29

2017-03-29 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月25日
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/25/8419677

この作品で、本多が、故・清顕の「生まれ変わり」である勲と出会うのは、大神神社の瀧のところである。そこで、その印である黒子を目にする。

ところで、『豊饒の海』は、宗教小説といってもよいかもしれない。仏教の輪廻転生をモチーフにしているのみならず、次の『暁の寺』では、タイ、それから、インドでの、人びとと宗教が濃厚に描写される。この『奔馬』においても、大神神社に代表される神道、神社というものが、重要な位置をしめる。

三島は、大神神社などの神道の信仰を、日本古来のものとしてそのまま信じているかのごとくである。無論、これは小説だから登場人物にそのように信じさせておくだけのことかもしれないが、読んでみるとどうもそれだけという感じはしない。三島自身が、神道を日本古来の宗教の姿をとどめているものと感じているように読めるのである。

この点については、現在の観点からは、いくらでも批判することができよう。神道といっても、現在につたわっているものは、特に仏教などの影響をうけたものとして、今にいたっている。それが、明治維新で、復古したような、あるいは、それが、昔からの姿をとどめているような印象をあたえるものになっているだけのことである。

やまもも書斎記 2016年6月9日
安丸良夫『神々の明治維新』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/09/8107799

三島由紀夫にとって、日本の「伝統」とか「信仰」とかは、どのようなものであったのか。それと彼の美意識はどう関連するのか。そして、それは、『豊饒の海』のテーマである、輪廻転生、唯識とどうかかわっているのであろうか。

日本近代文学を専攻しているというのではないので、このようなことに、現在、どのような研究の目が向けられているのか知らないでいるのだが、考えておくべき重要な問題だろうと思っている。日本の文化とか伝統、あるいは、信仰、宗教というようなものを引き受けていくのも文学の役割であると同時に、それに対する自覚的な反省の目をつちかっていくのも、また、文学の役目であると思うのである。