『豊饒の海』第三巻『暁の寺』三島由紀夫(その三)2017-04-01

2017-04-01 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年3月31日
『豊饒の海』第三巻『暁の寺』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/31/8436052


『暁の寺』は、前半(第一部)と後半(第二部)に分けて書かれている。これは、『豊饒の海』全体の構成を見ると、異常であるといえようか。そして、私の考えるところでは、『豊饒の海』の「輪廻転生」の物語は、前半(第一部)で、もう終わっている。三島は、これ以上「輪廻転生」の物語を書き続けることはできなかったのだと考える。だが、『豊饒の海』としての話しの続きを書き続ける必要があった。そこで、三島の選んだのは、本多を主人公にすえる、という方法であった。このように私は、『豊饒の海』を読む。

昨日、書いたことを含めて再整理するならば、次のようにまとめることができようか。

第一に、インドのベナレスでの生と死、聖と俗、人と動物、水と火、これらが混濁しているシーンを描いた後には、もはや、『春の雪』から書き継いできた、「輪廻転生」の物語も、「唯識」も、髑髏と清水のたとえも、消し飛んでしまう。これを、書いたところで、三島は、『豊饒の海』をある意味で挫折してしまう。

第二に、これは、三島の晩年の歴史観ともかかわることだが、戦争を絵が描かなかったことを、どう考えるかということがある。負けてしまった戦争の記憶というのは、三島にとっては、もはや正視するに絶えるものではなかったのかもしれない。戦争で、終わっているのである。この意味では、『春の雪』の舞台となった渋谷の松ヶ枝の屋敷跡での、老女と本多の邂逅のシーンは、印象的である。三島にとって、戦争とは、戦前のよかったものを何もかも無くしてしまった、忌避すべきことがらであったように思える。

第三に、『暁の寺』の第二部以降で、『豊饒の海』を書き継ぐことになったとき、そのテーマとなっているのは、もはや「輪廻転生」ではない。老いと生、そして、そこにあるエロティシズムである。『暁の寺』第二部以降は、本多の「老い」と「性」をめぐる物語になっている。ここにきて、「輪廻転生」して生まれ変わりであるとされるタイの王女は、脇役でしかありえない。

ざっくりと整理すれば、『暁の寺』については、以上の三点に、私の思うところを、まとめることができようか。

このようなことをうけて考えるならば、最後の『天人五衰』は、ただ、「輪廻転生」の物語をそれらしく完結させるための蛇足のようなものといえるのではないだろうか。

『べっぴんさん』が終わって2017-04-02

2017-04-02 當山日出夫

NHKの朝ドラ『べっぴんさん』が、終わった。

http://www.nhk.or.jp/beppinsan/

ともかく、習慣のようにしてほとんど毎朝見ていたのだが……はっきりいってあまり面白くなかった。なぜか……たしかに、主演の芳根京子は、頑張っていたと思う。だが、それだけという印象である。

女性の半生、一代記を描くというのは、もう、朝ドラでは無理なのではないだろうか。それを一人の女優だけで、というのは。

さすがに、小さいときは、子役の子供ではあった。だが、女学生以降、老年にいたるまでは、ちょっと難しいと感じる。まあ、見ていて、老年の部分になって、それなりに脚本に工夫があったり、演技の上でも年取った感じを出そうとしていたのは見てとれる。だが、それが成功したかどうかは、別の問題だろう。

特に、最終週になると、もうこの週はいらないのでないか、と感じた。孫の藍が生まれるまでで終わりにしてよかったのではないか。その後は、特に出来事らしい出来事もなく終わった。

いや、このドラマ自体、そんなに出来事らしい出来事が生じていない。淡々とした、日常の描写が中心であった。そのような方針であることは理解できるつもりではいるのだが、やはり、それだけでは見ていてつまらない。

日常の生活の中のドラマというものもある。たとえば、故・向田邦子の書いたものなどそうかもしれない。

今回の朝ドラ、あまりにもドラマがなさ過ぎた。

また、主人公(すみれ)の仲間の女性の四人についても、個性の際だったところが見られなかった。最後まで、見ていて、君枝と良子の区別ができなかった。女学校からの手芸仲間で会社をつくるとしても、そこになにがしかの人間模様がもっとあってよかったのではないか。

視聴率の点では、そこそこであったようだが、私としては、毎日の朝、少しでいいからドラマチックな展開を期待したいのである。波瀾万丈の大活劇を期待するわけではない。ちょっとした日常の出来事、事件、冒険、人と人とのかかわり、そんな小さなドラマを期待しているのである。

次の週からは、『ひよっこ』がはじまる。設定からすると、どうもNHK版の『ALWAYS』という感じかなと思っている。ちょっと前の時代、昭和の時代(戦後)を描くことになるはずである。この時代を、脚本がどのように描きだしてくれるか、期待することにしよう。

『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫2017-04-03

2017-04-03 當山日出夫

三島由紀夫.『天人五衰-豊饒の海 第四巻-』(新潮文庫).新潮社.1977(2003.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105024/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

先にも書いたが、この作品『豊饒の海』を読んだのは、大学生になってからであった。国文学専攻の学生として、読んでおくべき小説のひとつと思って読んだものである。読んだときの印象は、この最後の『天人五衰』にきて……いったい、なんなんだこの結末は……と感じたものである。これは、「輪廻転生」の物語ではなかったのか。なのに、どうして、最後に、聡子にこんな台詞を言わせるのか。

だが、40年ぶりぐらいに再読してみて、別にこのような結末であってもかまわない、という気がしている。いや、この小説の結末は、どうでもいいのである。まったく逆の結末……聡子が、清顕のことを懐かしく思い出すような……であっても、それはそれで別にかまわない。三島由紀夫にとっては、もう結末がどうなろうとどうでもよかったのではないか。彼にとって重要なことは、もはや市ヶ谷の件しかなかったはずである。

そして、すでに書いたように、この『豊饒の海』を再読してみて感じたことは、途中で挫折している破綻した小説であるということである。第三巻『暁の寺』のインドのベナレスでの、聖と俗、生と死、水と火、これらがいりまじったところに、ある種の宗教的な神聖さを見いだした文章を書いてしまえば、第一巻『春の雪』で提示されたたとえばなし……髑髏と清水……これなど、なんの意味もないものになってしまう。三島は、自分で出した問いにこたえることができなかった。少なくとも、文学的想像力で、それを超えることができなかったと、私は読んだのである。

だが、三島としては、長編『豊饒の海』の連作を途中で止めることはできなかった。作家としての矜恃がそれをゆるさなかったのかもしれない。結局、それまで「輪廻転生」の目撃者の立場にあった本多を、主人公にして、老いと性の物語を書き続けていくことになる。もはや「輪廻転生」は、どうでもよいものになっている。そして、そのように、「輪廻転生」したはずの少年は描かれることになる。はたして、その少年は、本当に「生まれ変わり」であったのか。そんなことは、もうどうでもよいことであったように思われる。

このような感想を、今になって抱くというのも、三島の事件とその作品を、過去のものとして眺めるだけの余裕のある立場にたっているということなのであろう。三島の年齢と、昭和の元号とは一致する。そして、昭和も終わり、さらに平成の時代も終わろうとしている(今上天皇は退位する予定である。)市ヶ谷での事件を、同時代の出来事として記憶する人も少数派になってしまった。ようやく、三島の文学と、その行動を、距離をおいて眺めることのできる時代になったというべきである。(といって、その評価が定まったというわけではなく、まだまだ考えるべきところは多くあるはずだが。)

だが、そうはいっても、『豊饒の海』は、戦後日本文学の重要な作品のひとつとして、読み継がれていく価値があるだろう。恋愛小説としての『春の雪』、青春小説としての『奔馬』、宗教小説としての『暁の寺』(第一部)、そして、老いと性の物語としての『暁の寺』(第二部)と『天人五衰』……それぞれの作品をとりあげて見てみれば、それなりにきわめて完成度の高いものばかりである。やはり、三島由紀夫は、戦後日本文学を代表する作家の一人であるというべきである。

追記 2017-04-05
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月5日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444702

『おんな城主直虎』あれこれ「城主はつらいよ」2017-04-04

2017-04-04 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年4月2日、第13回「城主はつらいよ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story13/

この前の回は、
やまもも書斎記 2017年3月28日
『おんな城主直虎』あれこれ「おんな城主直虎」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423978

もうネコがでなくなってしまった。

その代わりに登場してきたのが、方久。たぶん、これは、架空の存在なのだろうと思って見ていたのだが……このような人物を登場させるあたりが、今回のこのドラマの新機軸といっていいのかもしれない。

戦国の世で井伊は生きていくことになる。そこでは、今川、徳川、織田といった戦国の大名にかこまれるなかで、井伊谷の領地を守る国衆としてのエトスを、どう描くかが問題になる。このとき、前作、『真田丸』のような武力と知謀、姦計で生き抜くということではなさそうである。

戦国の時代なれば、商品経済、貨幣経済の時代になっているはず。ただ、「百姓」が年貢(米)を納めていればいいというものではない。

ところで、最近の歴史学の分野での網野善彦の評価がどうなっているのか、門外漢なのでよく知らないのだが、すくなくとも、「百姓=農民」という図式への疑問、また、「年貢=米」とは限らないということ、このあたりのことは、一般常識となっていると考えていいだろう。

この意味で、今回登場してきた、方久という人物の存在は、きわめて興味深い。

そういえば、司馬遼太郎の『国盗り物語』の斎藤道三は、油売りの商人から、大名になったのであった……このようなことを思い出してみる。

ともあれ、武断と知略で生き抜く戦国武将というのではない、「銭」でその経済的基盤をささえていかなければならない生活の有様、このような視点から戦国時代を描いたドラマとして、この作品は面白いものになっていると思う。

しかし、本当にもうネコは出てこないのだろうか。

追記 2017-04-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「徳政令の行方」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457643

『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その二)2017-04-05

2017-04-05 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 『豊饒の海』第四巻『天人五衰』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441386

この四部作も、ここにくると「輪廻転生」ということはもうどうでもよくなっている。そのように感じざるをえないということについては、すでに書いた。

では、「輪廻転生」の代わりに何が書いてあるのかとえば、「老い」と「性」であり、あるいは、「生命」と「エロティシズム」である。「老い」を描くということと、「輪廻転生」を描くということは、両立しない。少なくとも、三島においては、これは不可能なことであったと言わざるをえない。

しかし、三島の描いている「老い」は、かなり表面的である。三島が、『天人五衰』を書いていたのは、四〇代の前半のときになる。昭和45年に、三島はは市ヶ谷での事件をおこすことになる。『天人五衰』は、その絶筆である。

強いて対照的にとりあげてみるならば、川端康成の『山の音』。これは、「老い」を描いた小説として、きわめて高く評価できるものである。「老い」をその内面から描いている。

やまもも書斎記 2017年2月15日
『山の音』川端康成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/15/8362121

私としてはこう思う……三島は、その文学的想像力をもってしても、「老い」というものを内面から描くことに失敗している。いや、確かに、「老い」のマイナスの面、老醜というべきものを、見事に描いてはいる。だが、その底にある人生を見つめ直すまなざしのようなものが、欠落している。

川端康成も、また、「老い」のエロティシズムを描いている。だが、それは、日常生活の実感に即したものとしてである。

三島の場合、「老い」を描くのに、「若さ」との対比で描いてしまう。『天人五衰』で「生まれ変わり」と見なされることになる、少年の透は、その「若さ」のもつ残酷さとでもいうべき面のみが強調される。かつての『奔馬』の勲が持っていたような直情径行、剛直、というものは持ち合わせていない。むろん、純真なものでもありえない。

老醜を際立たせるためだけに描き出される「若さ」である。ここでは、透が本当に「輪廻転生」したのかどうか、これはもはやどうでもよいことになる。そして、これが、最後のシーン、聡子との再会の場面につながっていく。ここにあるのは、老残の本多の老醜である。それと対比するかたちで、聡子の凜とした姿がある。聡子のことばによって、本多の人生のすべてが打ち砕かれてしまう。

本多は年老いて、自ら自分の人生を見つめ直すことができない。ただ、透にしいたげられ、そして、最後に、聡子のことばに打ちのめされることになる。

これは、「老い」というものを、その内面から描き得なかった三島の、その四〇代の「若さ」のもつ限界というものかもしれない。

だが、そうはいっても、人間の「老い」と「若さ」を、ここまで残酷な物語として語ることのできた三島の文学的才能は見事であるといわざるをえないだろう。「輪廻転生」の物語としては破綻してしまっているかもしれないが、「老い」と「若さ」の物語として読めば、これは、すぐれた文学的到達をしめすものになっていると、私は読むのである。

追記 2017-04-07
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月17日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447449

『ひよっこ』のガオーは鉄人28号か2017-04-06

2017-04-06 當山日出夫

新しいNHKの朝ドラ『ひよっこ』を見ている。今は、家にいることができる時期なので、一日に三回見ている・・・

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/

三回目(水曜日)4月4日の放送のとき、みね子のおじさん(変なおじさん)が、みね子の家であそんでいたが、そのなかのシーンでふと思ったこと。

変なおじさんが、両手を上の方にあげて、「ガオー」と叫ぶ場面があった。子どもたちはおもしろがっていた。このシーン、何かで見たなと思っていた。これは、「鉄人28号」なのである。

YoutubeにそのOPがある。
https://www.youtube.com/watch?v=aNp3JP51A_I&t=2s

で、検索してみると、鉄人28号のHPがある。

鉄人28号 WEB SITE
http://king-cr.jp/special/tetsujin/top.html

このHPによると、テレビアニメは、1963年(昭和38年)らしい。

『ひよっこ』の時代設定は、ちょうど東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)だから、ちょうどその直前の時期のテレビアニメということになる。

みね子の家には、すでにテレビがある。東京での工事現場の事故のニュースを見て、心配で、父ちゃんのところまで電話をかけるために、電話を借りにでかけるシーンが、その前日にあった。

みね子たち兄弟は、「鉄人28号」のテレビアニメを見ていた可能性が高い。

そして、私はというと・・・これを憶えている。テレビアニメを見ていた世代になる。もちろん白黒であった。東京オリンピックを憶えている世代ならば、たぶん、この「鉄人28号」は憶えているだろう。

しかし、ナレーション(増田明美)は、何の説明もなかった。特定のテレビアニメのことに言及するのは、はばかられたのかもしれない。しかし、ここは、解説がほしかったところである。

Twitterを検索してみたが、このシーンで、「鉄人28号」を連想したものは、見当たらないようだ。他の人はそう連想しなかったのだろうか。

ひょっとすると、Twitterでこの件について述べたのは私だけかな。
https://twitter.com/htoym/status/849472383828328449

『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その三)2017-04-07

2017-04-06 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月5日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444702

『天人五衰』を読んでいて、思わず付箋をつけた箇所がある。それは、

「酒が来た。」(p.105)

である。

この箇所の意味の分かるためには、三島由紀夫の『文章読本』を読んでいないといけない。幸いというか、たまたまというか、私が学んだ高校の教科書には、三島由紀夫の『文章読本』が掲載されていて、授業であつかわれていた記憶がある。そして、この箇所に付箋をつけることになった。

三島由紀夫が『文章読本』で言及しているのは、森鴎外。その『寒山拾得』のなかの一文、

「水が来た。」

にふれて、これを激賞している。余計な虚飾をはぶいて、そのものずばりを描写した名文であるということが述べてあったと憶えている。

たぶん、三島由紀夫は、『天人五衰』のこの箇所を書いたとき、自分の書いた『文章読本』、そのなかで言及した森鴎外について、意識していたと思う。

これは、浅田次郎にもおよんでいる。その代表作のシリーズ「天切り松」のなかの一つの作品で、この「水が来た」をつかっている。いま、本をしまいこんであるので、どの作品のどのページであったかを探すことはできないが、確かにあった。

そこを読んだとき、浅田次郎は、こんなところで、三島由紀夫を、あるいは、森鴎外を意識して、その文章を書いているのか、と思ったものである。浅田次郎は、直接的にせよ間接的にせよ、かなり三島由紀夫の影響をうけている。むろん、それに反発するというところをふくめてであるが。

『楡家の人びと』北杜夫2017-04-08

2017-04-08 當山日出夫

北杜夫.『楡家の人びと 第一部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113157/

『魔の山』(トーマス・マン、新潮文庫)を読んだ。そのこともあって、北杜夫の作品を読みたくなった。新潮文庫版の『楡家の人びと』を買って読んでいる。

北杜夫は、中学生ぐらいのときから読んできている。「どくとるマンボウ」のシリーズは、愛読したものである。特に「青春記」は、高校生のころに、よく読み返した。

『楡家の人びと』も読んだ。高校生になってからであろうか。新潮社の単行本で読んだ。たしか、その帯に、三島由紀夫の推薦文が載っていて、この作品を褒めていたのを記憶している。

探せば昔読んだ本がみつかるかもしれないのだが、新しい新潮文庫版で読むことにした。活字があたらしくきれいで大きくなっている。

まず、「第一部」から。やはりこの作品(第三部まで)の「主人公」は楡基一郎だろう。実際に作品中に登場するのは、第一部までなのであるが、この作品『楡家の人びと』は、なんといっても「楡病院」が舞台である。「第二部」「第三部」になっても、どこかにその創立者、楡基一郎の影がのこっている。

日本の近現代の文学作品のなかで、楡基一郎ほど、卓越した、あるいは、途方もない主人公はいないのではなかろうか。これほど奇妙な、それでいて、憎むことのできない、独自のキャラクターである。よくこんな主人公を思いついたものである。

楡基一郎に比べれば、後の巻で重要な役割をはたす、米国(よねくに)とか、桃子とか、独特の人物造形であるとはいえ、ありふれた普通の人間に思えてくる。特に、第二部以降、重要な位置をしめる徹吉が、逆に、ごく平凡な人間のように感じられもする。

今、「第三部」のところを読んでいる。『楡家の人びと』を読み返すのは、30年、40年ぶりぐらいになるだろうか。昔、読んで憶えているところもあり、読み返して、なるほどと納得するところもあり、あるいは、こんなことが書いてあったのかと再発見しておどろくようなところもあり、である。

ともあれ、この『楡家の人びと』は、近代日本の文学において、きわめて重要な作品であると思う。これに匹敵する作品は、他にないのではなかろうか。楡家という、きわめて特異な一族とその周辺の人物を描くことによって、大正から戦後までの、日本の社会、国家と、そこに生きてきた人びとの生活を活写してしている。結果として、近代国家としての日本を描き出すことになっている。著者の意図はそんなところにはなかったのかもしれないが、今のわれわれにとっては、非常に貴重な文学的遺産である。この本は、ひろく読まれて、また、論じられるべきだと思う。

先に結論めいたものを書いてしまえば、これは、近代の日本の物語なのである。近代がどのような時代であった、特に、大正から太平洋戦争の時期、日本人はどのようにして生きてきたのか、その息づかいを感じさせてくれる。この作品について語ることは、日本の近代とそこに生きた人びとを語ることにつながる。

『楡家の人びと』については、いろいろと思い出もあるし、考えるところもある。順次、書いていくことにしたい。

追記 2017-04-10
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月10日
『楡家の人びと』北杜夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/10/8453740

『ひよっこ』あれこれ「お父ちゃんが帰ってくる!」2017-04-09

2017-04-09 當山日出夫

NHKの朝ドラ『ひよっこ』を見始めている。視聴率は、今ひとつといったところのようだが、面白い。これが、いつまで続くかわからないが、岡田惠和の脚本として、見ていきたいと思っている。岡田脚本の作品としては、これまでに、「ちゅらさん」「おひさま」と見てきている。これらは、面白かった。

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/

第一週「お父ちゃんが帰ってくる!」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/01/

見どころは、いろいろとあるだろうが、なんといっても、昭和39年……東京オリンピックの年である……の設定で、その農村の日常生活を細かに描いているいるところだろう。ヒロイン・みね子の家は、農協に借金がある。その返済のため、父(実)は、東京に出稼ぎに行っている。その父親に対して、みね子は、その気持ちをおしはかる。家族のもとに帰ってきてほしいと願う。

第一週を見た限りであるが、この脚本は、その時代……昭和39年ごろ……という時代の世相を、情感をこめて細やかに描き出そうとしているようである。作中で、登場人物の歌う歌、「高校三年生」「東京ドドンパ娘」「いつでも夢を」それから「庭の千草」など。時代を感じさせる選曲である。

また、みね子のおじさん(変なおじさん)のやっていた「ガオー」とか、稲刈りの時の「こりゃまた失礼いたしました」などの台詞は、まさに、その時代ならではのものだろう。

ただ、これらのネタは、私の年ならわかるのだが……どうだろう、これらのことが何の注釈、解説もなしに理解できるのは、おそらく、少なくとも50歳以上の年齢になるのではないか。あるいは、60歳以上かもしれない。

やまもも書斎記 2017年4月6日
『ひよっこ』のガオーは鉄人28号か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/06/8446313

また、稲刈りのシーンで、アメリカの高いビルの話しになると、キングコングが映っていた。

気になったことを書いてみると、土曜日(4月8日)の放送。みね子一家の稲刈りのシーンで、「日本の原風景」という台詞がでてきていた。たしかに、一家そろって、稲をかる、それも手作業で、というのは、日本の農村に見られた光景かもしれない。しかし、それをもってして、「日本の原風景」と言ってしまうのは、どうだろうか。農村の農作業の光景も、歴史的、社会的にある流れのなかで、構成されていくものである。ドラマで描いたような、家族そろっての農作業というのは、あるいは、近代、それも、戦後の一時期のものかもしれない。

そして、強いていえば、「百姓=農民=米作」という図式的理解の枠組みの範囲を超えるものになっていない。おそらく、現在の歴史学の知見からすれば、この枠組みは、近代になってから作られた虚構であるといえるだろう。

このようなことを批判的に思ってはみるものの、それでも、作中にふと映しだされる農村の光景には、こころ癒やされるものがある。

そういえば、岡田脚本の前作「おひさま」では、毎回、数秒ではあるが、信州の風景が挿入されていて、それを見るごとに、こころなごんだものである。このような自然のなかで、ヒロイン・陽子たちが生活しているのかと感じたものである。「ちゅらさん」でも、沖縄の風景、街の様子が印象的であった。

「ひよっこ」では、茨城(奥茨城村)の農村風景が、これからも描かれることになるのだろうか。また、これから、舞台は東京に移るはずだが、その東京での生活をどのように描いていくのか、楽しみである。

このドラマに出てくる「出稼ぎ」「集団就職」ということば、私の子供のころまでは、実際にリアルなものとしてあった。それを、高度経済瀬長を経て、そして、バブルの崩壊の後、振り返って見て、どのように描くことになるのか。このドラマは、NHK版の『ALWAYS 三丁目の夕日』になるのかと、思って楽しみに見ることにしようと思っている。

「出稼ぎ」「集団就職」ということばは懐かしいだけではない。歴史的には、その底には、地方と都市の生活の格差、差別、蔑視、といったものと無縁であったわけではない。そして、私は、その時代のことを、まだ、かろうじて記憶に残している。それを、そのことを知らない若い世代の視聴者に、どう描いてみせるか、このあたりが、今後の見どころの一つになるかなとも思う。

『楡家の人びと』北杜夫(その二)2017-04-10

2017-04-10 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月8日
『楡家の人びと』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/08/8448584

北杜夫.『楡家の人びと 第二部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113158/

『楡家の人びと』の登場人物で、「主人公」はといえば、楡基一郎になる。が、その基一郎は、第一部の終わりでこの世を去ってしまう。意外にあっけないほどである。しかし、にもかかわずというべきか、この小説の最後のシーンにいたるまで、どこなく基一郎の姿が、残影のごとくただよっているのを感じずにはいられない。この小説の最後、龍子の姿に、基一郎の影を感じてしまう。それほどまで、基一郎はユニークな存在であり、独特な人物である。

楡家という家、また、楡病院を舞台にして、ということからすれば、これも当然のことかもしれないが。

しかし、第二部になると、その主人公といえないまでも中心的な人物として登場してくるのが、徹吉である。長女・龍子の夫。モデルは、北杜夫の父親である斎藤茂吉になるはず。そのように、読んでしまうことになる。

この第二部では、徹吉の苦労が描かれることになる。

一つは、火災で焼失した楡病院の再建をになう、若き医師・経営者としての姿。その姿は、見るからにいたましい。借金をしてでも、どうにかこうにか、楡病院の再建にこぎつける。

そして、同時に描かれるのが、第二の側面。医師であり、学究としての側面。精神医学の歴史……主に、西洋の古典からスタートすることになるのだが……その歴史を通史として、まとめようと努力する。東大を出て、ドイツに留学していたとはいえ、立場は、一般の開業医である。大学に籍をおく研究者ではない。しかし、それにもかかわらず、営々として書物をあつめ、原稿を執筆していく。その姿に、私は、共感を覚える。

たぶん、それは、まったく分野が異なるとはいえ、私自身が、学問研究の一分野……日本語学・国語学……というところに、身をおいているせいかもしれない。だが、若い時、まだ、高校生ぐらいの時に、この作品を読んだときの記憶でも、書物の執筆に没頭する、そのために家族との関係も犠牲にする、その姿に、ある種の感銘をうけたと憶えている。

久しぶりに、『楡家の人びと』を読み返してみても、その若いときにうけた、徹吉の、研究への情熱には、感動するものがある。これは、著者(北杜夫)が、父・斎藤茂吉をモデルにして、描き出した人物ということもあるのかもしれないと思う。

ただ、今回、読み返してみて気付いたことは……研究と執筆に没頭する徹吉の姿を、著者は、距離をおいて見る余裕をもって描いている。このことは、昔、若い時に読んだときには、この作品から感じなかったものである。(その時、まだ、私は若かったのである。小説の読み方も未熟であった。)

もちろん、小説として虚構のものである以上、その登場人物は、すべて架空のものである。その架空の世界の中で、いかにリアリティを持って描くかが、小説家の技量と言えばそれまでだが、特に、この『楡家の人びと』は、その架空の世界の設定が巧い。登場人物がみな、こんな人物は、こんな人はめったにいないような、でありながら、ひょっとして、そこいらにもいるかもしれない、という感じで描かれている。このあたりが、この小説の文学的価値の一つといえるのであろう。

その中で、現実にモデルを設定してあると感じ取れるのが、徹吉である。父親の斎藤茂吉である。また、その子、周二は、著者自身と読むこともできよう。

このようにモデルを設定して、それを作品に投影して読んでみても、虚構の世界の登場人物として、どこか冷めた目で描いているところがある。その冷めた目を一番感じるのが、徹吉についてである。

同時に、徹吉については、作者の深い思い入れも感じ取ることができる。だからこそ、作者は、あえて突き放して徹吉を描く視点を、作中に用意してある、そのように読むことができる。

日本近代文学のかかえる問題……私小説……それを、超えたところにこの小説がなりたっていると感じさせる、一番の登場人物が徹吉であると、私は、『楡家の人びと』を読んで思うのである。

追記 2017-04-12
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月12日
『楡家の人びと』北杜夫(その三)
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