『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫2017-04-03

2017-04-03 當山日出夫

三島由紀夫.『天人五衰-豊饒の海 第四巻-』(新潮文庫).新潮社.1977(2003.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/105024/

やまもも書斎記 2017年3月9日
『豊饒の海』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/09/8397497

先にも書いたが、この作品『豊饒の海』を読んだのは、大学生になってからであった。国文学専攻の学生として、読んでおくべき小説のひとつと思って読んだものである。読んだときの印象は、この最後の『天人五衰』にきて……いったい、なんなんだこの結末は……と感じたものである。これは、「輪廻転生」の物語ではなかったのか。なのに、どうして、最後に、聡子にこんな台詞を言わせるのか。

だが、40年ぶりぐらいに再読してみて、別にこのような結末であってもかまわない、という気がしている。いや、この小説の結末は、どうでもいいのである。まったく逆の結末……聡子が、清顕のことを懐かしく思い出すような……であっても、それはそれで別にかまわない。三島由紀夫にとっては、もう結末がどうなろうとどうでもよかったのではないか。彼にとって重要なことは、もはや市ヶ谷の件しかなかったはずである。

そして、すでに書いたように、この『豊饒の海』を再読してみて感じたことは、途中で挫折している破綻した小説であるということである。第三巻『暁の寺』のインドのベナレスでの、聖と俗、生と死、水と火、これらがいりまじったところに、ある種の宗教的な神聖さを見いだした文章を書いてしまえば、第一巻『春の雪』で提示されたたとえばなし……髑髏と清水……これなど、なんの意味もないものになってしまう。三島は、自分で出した問いにこたえることができなかった。少なくとも、文学的想像力で、それを超えることができなかったと、私は読んだのである。

だが、三島としては、長編『豊饒の海』の連作を途中で止めることはできなかった。作家としての矜恃がそれをゆるさなかったのかもしれない。結局、それまで「輪廻転生」の目撃者の立場にあった本多を、主人公にして、老いと性の物語を書き続けていくことになる。もはや「輪廻転生」は、どうでもよいものになっている。そして、そのように、「輪廻転生」したはずの少年は描かれることになる。はたして、その少年は、本当に「生まれ変わり」であったのか。そんなことは、もうどうでもよいことであったように思われる。

このような感想を、今になって抱くというのも、三島の事件とその作品を、過去のものとして眺めるだけの余裕のある立場にたっているということなのであろう。三島の年齢と、昭和の元号とは一致する。そして、昭和も終わり、さらに平成の時代も終わろうとしている(今上天皇は退位する予定である。)市ヶ谷での事件を、同時代の出来事として記憶する人も少数派になってしまった。ようやく、三島の文学と、その行動を、距離をおいて眺めることのできる時代になったというべきである。(といって、その評価が定まったというわけではなく、まだまだ考えるべきところは多くあるはずだが。)

だが、そうはいっても、『豊饒の海』は、戦後日本文学の重要な作品のひとつとして、読み継がれていく価値があるだろう。恋愛小説としての『春の雪』、青春小説としての『奔馬』、宗教小説としての『暁の寺』(第一部)、そして、老いと性の物語としての『暁の寺』(第二部)と『天人五衰』……それぞれの作品をとりあげて見てみれば、それなりにきわめて完成度の高いものばかりである。やはり、三島由紀夫は、戦後日本文学を代表する作家の一人であるというべきである。

追記 2017-04-05
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月5日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444702