『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その二)2017-04-05

2017-04-05 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 『豊饒の海』第四巻『天人五衰』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441386

この四部作も、ここにくると「輪廻転生」ということはもうどうでもよくなっている。そのように感じざるをえないということについては、すでに書いた。

では、「輪廻転生」の代わりに何が書いてあるのかとえば、「老い」と「性」であり、あるいは、「生命」と「エロティシズム」である。「老い」を描くということと、「輪廻転生」を描くということは、両立しない。少なくとも、三島においては、これは不可能なことであったと言わざるをえない。

しかし、三島の描いている「老い」は、かなり表面的である。三島が、『天人五衰』を書いていたのは、四〇代の前半のときになる。昭和45年に、三島は市ヶ谷での事件をおこすことになる。『天人五衰』は、その絶筆である。

強いて対照的にとりあげてみるならば、川端康成の『山の音』。これは、「老い」を描いた小説として、きわめて高く評価できるものである。「老い」をその内面から描いている。

やまもも書斎記 2017年2月15日
『山の音』川端康成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/15/8362121

私としてはこう思う……三島は、その文学的想像力をもってしても、「老い」というものを内面から描くことに失敗している。いや、確かに、「老い」のマイナスの面、老醜というべきものを、見事に描いてはいる。だが、その底にある人生を見つめ直すまなざしのようなものが、欠落している。

川端康成も、また、「老い」のエロティシズムを描いている。だが、それは、日常生活の実感に即したものとしてである。

三島の場合、「老い」を描くのに、「若さ」との対比で描いてしまう。『天人五衰』で「生まれ変わり」と見なされることになる、少年の透は、その「若さ」のもつ残酷さとでもいうべき面のみが強調される。かつての『奔馬』の勲が持っていたような直情径行、剛直、というものは持ち合わせていない。むろん、純真なものでもありえない。

老醜を際立たせるためだけに描き出される「若さ」である。ここでは、透が本当に「輪廻転生」したのかどうか、これはもはやどうでもよいことになる。そして、これが、最後のシーン、聡子との再会の場面につながっていく。ここにあるのは、老残の本多の老醜である。それと対比するかたちで、聡子の凜とした姿がある。聡子のことばによって、本多の人生のすべてが打ち砕かれてしまう。

本多は年老いて、自ら自分の人生を見つめ直すことができない。ただ、透にしいたげられ、そして、最後に、聡子のことばに打ちのめされることになる。

これは、「老い」というものを、その内面から描き得なかった三島の、その四〇代の「若さ」のもつ限界というものかもしれない。

だが、そうはいっても、人間の「老い」と「若さ」を、ここまで残酷な物語として語ることのできた三島の文学的才能は見事であるといわざるをえないだろう。「輪廻転生」の物語としては破綻してしまっているかもしれないが、「老い」と「若さ」の物語として読めば、これは、すぐれた文学的到達をしめすものになっていると、私は読むのである。

追記 2017-04-07
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月17日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447449