『楡家の人びと』北杜夫 ― 2017-04-08
2017-04-08 當山日出夫
北杜夫.『楡家の人びと 第一部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113157/
『魔の山』(トーマス・マン、新潮文庫)を読んだ。そのこともあって、北杜夫の作品を読みたくなった。新潮文庫版の『楡家の人びと』を買って読んでいる。
北杜夫は、中学生ぐらいのときから読んできている。「どくとるマンボウ」のシリーズは、愛読したものである。特に「青春記」は、高校生のころに、よく読み返した。
『楡家の人びと』も読んだ。高校生になってからであろうか。新潮社の単行本で読んだ。たしか、その帯に、三島由紀夫の推薦文が載っていて、この作品を褒めていたのを記憶している。
探せば昔読んだ本がみつかるかもしれないのだが、新しい新潮文庫版で読むことにした。活字があたらしくきれいで大きくなっている。
まず、「第一部」から。やはりこの作品(第三部まで)の「主人公」は楡基一郎だろう。実際に作品中に登場するのは、第一部までなのであるが、この作品『楡家の人びと』は、なんといっても「楡病院」が舞台である。「第二部」「第三部」になっても、どこかにその創立者、楡基一郎の影がのこっている。
日本の近現代の文学作品のなかで、楡基一郎ほど、卓越した、あるいは、途方もない主人公はいないのではなかろうか。これほど奇妙な、それでいて、憎むことのできない、独自のキャラクターである。よくこんな主人公を思いついたものである。
楡基一郎に比べれば、後の巻で重要な役割をはたす、米国(よねくに)とか、桃子とか、独特の人物造形であるとはいえ、ありふれた普通の人間に思えてくる。特に、第二部以降、重要な位置をしめる徹吉が、逆に、ごく平凡な人間のように感じられもする。
今、「第三部」のところを読んでいる。『楡家の人びと』を読み返すのは、30年、40年ぶりぐらいになるだろうか。昔、読んで憶えているところもあり、読み返して、なるほどと納得するところもあり、あるいは、こんなことが書いてあったのかと再発見しておどろくようなところもあり、である。
ともあれ、この『楡家の人びと』は、近代日本の文学において、きわめて重要な作品であると思う。これに匹敵する作品は、他にないのではなかろうか。楡家という、きわめて特異な一族とその周辺の人物を描くことによって、大正から戦後までの、日本の社会、国家と、そこに生きてきた人びとの生活を活写してしている。結果として、近代国家としての日本を描き出すことになっている。著者の意図はそんなところにはなかったのかもしれないが、今のわれわれにとっては、非常に貴重な文学的遺産である。この本は、ひろく読まれて、また、論じられるべきだと思う。
先に結論めいたものを書いてしまえば、これは、近代の日本の物語なのである。近代がどのような時代であった、特に、大正から太平洋戦争の時期、日本人はどのようにして生きてきたのか、その息づかいを感じさせてくれる。この作品について語ることは、日本の近代とそこに生きた人びとを語ることにつながる。
『楡家の人びと』については、いろいろと思い出もあるし、考えるところもある。順次、書いていくことにしたい。
追記 2017-04-10
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月10日
『楡家の人びと』北杜夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/10/8453740
北杜夫.『楡家の人びと 第一部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113157/
『魔の山』(トーマス・マン、新潮文庫)を読んだ。そのこともあって、北杜夫の作品を読みたくなった。新潮文庫版の『楡家の人びと』を買って読んでいる。
北杜夫は、中学生ぐらいのときから読んできている。「どくとるマンボウ」のシリーズは、愛読したものである。特に「青春記」は、高校生のころに、よく読み返した。
『楡家の人びと』も読んだ。高校生になってからであろうか。新潮社の単行本で読んだ。たしか、その帯に、三島由紀夫の推薦文が載っていて、この作品を褒めていたのを記憶している。
探せば昔読んだ本がみつかるかもしれないのだが、新しい新潮文庫版で読むことにした。活字があたらしくきれいで大きくなっている。
まず、「第一部」から。やはりこの作品(第三部まで)の「主人公」は楡基一郎だろう。実際に作品中に登場するのは、第一部までなのであるが、この作品『楡家の人びと』は、なんといっても「楡病院」が舞台である。「第二部」「第三部」になっても、どこかにその創立者、楡基一郎の影がのこっている。
日本の近現代の文学作品のなかで、楡基一郎ほど、卓越した、あるいは、途方もない主人公はいないのではなかろうか。これほど奇妙な、それでいて、憎むことのできない、独自のキャラクターである。よくこんな主人公を思いついたものである。
楡基一郎に比べれば、後の巻で重要な役割をはたす、米国(よねくに)とか、桃子とか、独特の人物造形であるとはいえ、ありふれた普通の人間に思えてくる。特に、第二部以降、重要な位置をしめる徹吉が、逆に、ごく平凡な人間のように感じられもする。
今、「第三部」のところを読んでいる。『楡家の人びと』を読み返すのは、30年、40年ぶりぐらいになるだろうか。昔、読んで憶えているところもあり、読み返して、なるほどと納得するところもあり、あるいは、こんなことが書いてあったのかと再発見しておどろくようなところもあり、である。
ともあれ、この『楡家の人びと』は、近代日本の文学において、きわめて重要な作品であると思う。これに匹敵する作品は、他にないのではなかろうか。楡家という、きわめて特異な一族とその周辺の人物を描くことによって、大正から戦後までの、日本の社会、国家と、そこに生きてきた人びとの生活を活写してしている。結果として、近代国家としての日本を描き出すことになっている。著者の意図はそんなところにはなかったのかもしれないが、今のわれわれにとっては、非常に貴重な文学的遺産である。この本は、ひろく読まれて、また、論じられるべきだと思う。
先に結論めいたものを書いてしまえば、これは、近代の日本の物語なのである。近代がどのような時代であった、特に、大正から太平洋戦争の時期、日本人はどのようにして生きてきたのか、その息づかいを感じさせてくれる。この作品について語ることは、日本の近代とそこに生きた人びとを語ることにつながる。
『楡家の人びと』については、いろいろと思い出もあるし、考えるところもある。順次、書いていくことにしたい。
追記 2017-04-10
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月10日
『楡家の人びと』北杜夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/10/8453740
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