『楡家の人びと』北杜夫(その二)2017-04-10

2017-04-10 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月8日
『楡家の人びと』北杜夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/08/8448584

北杜夫.『楡家の人びと 第二部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113158/

『楡家の人びと』の登場人物で、「主人公」はといえば、楡基一郎になる。が、その基一郎は、第一部の終わりでこの世を去ってしまう。意外にあっけないほどである。しかし、にもかかわずというべきか、この小説の最後のシーンにいたるまで、どこなく基一郎の姿が、残影のごとくただよっているのを感じずにはいられない。この小説の最後、龍子の姿に、基一郎の影を感じてしまう。それほどまで、基一郎はユニークな存在であり、独特な人物である。

楡家という家、また、楡病院を舞台にして、ということからすれば、これも当然のことかもしれないが。

しかし、第二部になると、その主人公といえないまでも中心的な人物として登場してくるのが、徹吉である。長女・龍子の夫。モデルは、北杜夫の父親である斎藤茂吉になるはず。そのように、読んでしまうことになる。

この第二部では、徹吉の苦労が描かれることになる。

一つは、火災で焼失した楡病院の再建をになう、若き医師・経営者としての姿。その姿は、見るからにいたましい。借金をしてでも、どうにかこうにか、楡病院の再建にこぎつける。

そして、同時に描かれるのが、第二の側面。医師であり、学究としての側面。精神医学の歴史……主に、西洋の古典からスタートすることになるのだが……その歴史を通史として、まとめようと努力する。東大を出て、ドイツに留学していたとはいえ、立場は、一般の開業医である。大学に籍をおく研究者ではない。しかし、それにもかかわらず、営々として書物をあつめ、原稿を執筆していく。その姿に、私は、共感を覚える。

たぶん、それは、まったく分野が異なるとはいえ、私自身が、学問研究の一分野……日本語学・国語学……というところに、身をおいているせいかもしれない。だが、若い時、まだ、高校生ぐらいの時に、この作品を読んだときの記憶でも、書物の執筆に没頭する、そのために家族との関係も犠牲にする、その姿に、ある種の感銘をうけたと憶えている。

久しぶりに、『楡家の人びと』を読み返してみても、その若いときにうけた、徹吉の、研究への情熱には、感動するものがある。これは、著者(北杜夫)が、父・斎藤茂吉をモデルにして、描き出した人物ということもあるのかもしれないと思う。

ただ、今回、読み返してみて気付いたことは……研究と執筆に没頭する徹吉の姿を、著者は、距離をおいて見る余裕をもって描いている。このことは、昔、若い時に読んだときには、この作品から感じなかったものである。(その時、まだ、私は若かったのである。小説の読み方も未熟であった。)

もちろん、小説として虚構のものである以上、その登場人物は、すべて架空のものである。その架空の世界の中で、いかにリアリティを持って描くかが、小説家の技量と言えばそれまでだが、特に、この『楡家の人びと』は、その架空の世界の設定が巧い。登場人物がみな、こんな人物は、こんな人はめったにいないような、でありながら、ひょっとして、そこいらにもいるかもしれない、という感じで描かれている。このあたりが、この小説の文学的価値の一つといえるのであろう。

その中で、現実にモデルを設定してあると感じ取れるのが、徹吉である。父親の斎藤茂吉である。また、その子、周二は、著者自身と読むこともできよう。

このようにモデルを設定して、それを作品に投影して読んでみても、虚構の世界の登場人物として、どこか冷めた目で描いているところがある。その冷めた目を一番感じるのが、徹吉についてである。

同時に、徹吉については、作者の深い思い入れも感じ取ることができる。だからこそ、作者は、あえて突き放して徹吉を描く視点を、作中に用意してある、そのように読むことができる。

日本近代文学のかかえる問題……私小説……それを、超えたところにこの小説がなりたっていると感じさせる、一番の登場人物が徹吉であると、私は、『楡家の人びと』を読んで思うのである。

追記 2017-04-12
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月12日
『楡家の人びと』北杜夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/12/8460638