『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン(岩波文庫)2017-04-19

2017-04-19 當山日出夫

トオマス・マン.実吉捷郎訳.『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫).岩波書店).1952(2003.改版)
https://www.iwanami.co.jp/book/b247754.html

『魔の山』を読んだら、『楡家の人びと』が読みたくなって、その次には、『トニオ・クレエゲル』を、再び読んでみたくなった。探せば昔の岩波文庫版がどこかにあるかもしれないと思うのだが、これは新しく買って読むことにした。昔風の言い方をすれば、岩波文庫で★ひとつの本である。新しい本は、改版されてきれいな印刷になっている。読みやすい。

この作品のタイトルは、「トニオ・クレーゲル」ではなくて、「トニオ・クレエゲル」である。この訳者(実吉捷郎)の外国語の片仮名表記の方式として、長音「ー」は使わない主義のようだ。この翻訳のなかでも、たとえば「カフェエ」「スェエデン」などとある。

さて、『トニオ・クレエゲル』であるが、私が若いころ(学生のころ)に読んだ、岩波文庫★ひとつの本のなかでは、一番よく読み返しただろうか。その他には、『フォイエルバッハ論』などがあろうか。

とにかく、この作品の中に描かれた、「芸術」「文学」という世界に、心酔していたものである。そのような時期が、人生の若いころにあってもよいとおもう……今になって読み返してみて、強く感じる。あえてこうもいってみようか……若い時に、『トニオ・クレエゲル』に心酔したような経験のない人と、ともに芸術とか文学とかを語ろうとは思わない。

まあ、別にとりたてて『トニオ・クレエゲル』という作品をどうのこうのということではなく、そのような心性のあり方についてである。もう今では、文学作品に接して、芸術的感動をおぼえるなどは、すたれてしまったことなのかもしれない。文学青年などは、死語といってもよいであろう。

そして、30年、40年ぶりに、昔読んだ本を読み返してみて、もう、昔の若かったころのように、芸術の世界に心酔するということはない。しかし、その魅力、あるいは、芸術というものにこころひかれるというという心のあり方、それには、まだ私のこころはかたむくところがある。このように感じるというのも、年をとってしまったということなのであろうし、また、同時に、年をとっても、いや年をとったからこそ、若いころにもどって、同じとはいかないまでも、昔のような文学にこころひかれる日々をすごしたいと思う。

次に読もうとおもって買ってあるのは、『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫)。これも若い時に手にした本。たしか、途中で挫折してしまったと憶えているのだが、これは、今回はきちんと読むことができるだろう。そのような読書の時間をつかいたいものである。