『トニオ・クレエゲル』と『楡家の人びと』の時間構造2017-04-21

2017-04-21 當山日出夫

これは、いつ気がついたことなのか、もう忘れてしまっているのが、頭の片隅に残っていることなので書いておきたい。『トニオ・クレエゲル』(トオマス・マン)と、『楡家の人びと』(北杜夫)の、叙述、語りの時間構造についてである。

『トニオ・クレエゲル』の最初の章は、トニオとハンスの物語からはじまる。少年のトニオが、学校が終わってハンスと一緒に家路をたどる。その過程で、トニオとハンスをめぐる様々なできごとが回想的に叙述される。そして、最後にトニオが、家に帰るところで終わる。

図式化すれば、次のようになろうか。

トニオの登場
  トニオとハンスの種々のエピソードの数々
トニオの帰宅

このようなサンドイッチ構造を基本として、その中もまた、サンドイッチ構造とでもいうべき叙述のスタイルになっている。トニオとハンスのエピソードも、次から次へと展開され、それぞれが先の話題に回収されていく。そして、もとにもどる。

このような小説の叙述の時間構造とでもいうべきものは、『楡家の人びと』にも見てとることができる。『楡家の人びと』の最初の章、院代が病院内を散策するシーン。病院内を散策しながら、目にとまったものについて叙述される。それが積み重なって元に回収されて最後は、再び院代が病院内を散策する場面で終わる。

北杜夫がトーマス・マンを愛読していたことは、よく知られていることである。ただ、その作品を愛好していたというにとどまらない。読んでみると、その小説の中の叙述の時間構造まで、トーマス・マンにそっくりなのである。このことに、若い時どちらかの作品を読んでいたとき……『トニオ・クレエゲル』も『楡家の人びと』も何度か読み返している……ふと、ああ、これは同じ方法で叙述してあるな、と気付いたものである。

特に文学研究をメインにしているというわけではないので、特に論文にしようなどと思っているわけではない。もし論文にするならば、ここにあげたような叙述の時間構造が、トーマス・マンにはじまるものなのかどうか、さらに遡って考察する必要があるだろう。また、北杜夫におけるトーマス・マンの影響ということで、比較文学の研究テーマにもなり得よう。

とにかく、『楡家の人びと』を読んだ人間の感覚からして、これは、『トニオ・クレエゲル』と同じだな、と強く感じる。

ただ、私としては、ある文学作品に深く傾倒するということは、自分が書く文章、それが小説ならばなおのこと、その叙述のスタイルまで、意識的にせよ、無意識的にせよ、影響を受けるほどのことである、ということを確認しておきたいのである。これぐらいになるまで、心をかたむけなければ、本当に愛読しているとはいえないのである。

本を読む、さらには、ある作品、作家を愛読するとはどういうことかを、考えておきたいと思っている。若い頃、『楡家の人びと』も『トニオ・クレエゲル』も、私の愛読書であったといってよい。愛読書なればこそ、このようなことに、ふと気付くというものなのである。