『ひよっこ』あれこれ「明日に向かって走れ!」2017-04-23

2017-04-23 當山日出夫

ひょっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/

ひよっこ、第3週、「明日に向かって走れ!」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/03/

私の見た印象としてあげておきたいのは、次の三点。

第一は、東京オリンピックのときの日本である。そのころまだ私は小学生であった。1955年、昭和30年の生まれである。だから、その時のことは、かなり鮮明に記憶にのこっている。

まさに国民的行事だった。あえていえば……「日本人」の、その「国民」の「記憶」に残る出来事であったといってよい。

その年の、秋の運動会の時は、通例ならば、紅白に分かれて競技するところを、五輪の五つのチームに分かれての競技だった。また、近くの道を、聖火(これは本物)が通るというので、学校からそろって見物に行ったことも記憶している。

このドラマでは、このような、日本人の記憶にある東京オリンピックというものを、実にたくみに描いていたと思う。それによせる期待、それを、自分たちの村でも聖火リレーをやりたいと発案して実行する。

国立競技場のシーンで、この競技場は、出稼ぎに行っている父ちゃんがつくったんだよね、という子どもの台詞が、いかにも切なく感じられる。あるいは、国立競技場の建設に従事したということだけで、誇りに思える時代でもあった。

第二に、この聖火リレーをどうするかという青年会の場面。そのとき、村の若者たちのそれぞれに微妙な立場の違いが描かれていた。農家の三男だからどうしても村を出て行かざるをえないもの(三男)、東京に夢をいだいて出て行こうとしているもの(時子)、それから、逆に、長男だから村に残らざるをえないもの、出て行きたくても出られないもの(三男の兄、時子の兄)。

これらのそれぞれに異なる立場をふまえたうえで、最終的に、みね子は、東京に出る決心をすることになる。ただ、東京に出稼ぎに行く、行方不明になった父のかわりに働く、父を探す、というだけではない、村への複雑に屈折した思いへと、最終的にうまくつながっていると感じる。

第三に、土曜日の回。ちよ子がバスにのって東京に行こうとして、車掌(次郎)につれられて帰ってくるところ。ここで、次郎が言っている、バスにいろんな人をのせた、と。

さりげない台詞だが、ここで、バスというものが、村と東京をつなぐ「境界」の意味を与えられていることに気付く。民俗学的な解釈をすれば、ということになるが。こちらの世界、奥茨城村と、東京をつなぐものが、バスなのである。また、それは「境界」の空間でもある。

この意味で思い起こしてみるならば、以前の朝ドラ『あまちゃん』で、北三陸駅が、ドラマの主な舞台になっていたことの意味が理解される。駅は、こちら(北三陸の海女の世界)と、あちら(東京のアイドルの世界)をつなぐものである。その列車のなかで、地元のアイドルとして、潮騒のメモリーが歌われる。列車、そして、駅は、こちらとあちらをつなぐ「境界」の空間だったのである。

以上の三点が、今週、このドラマを見て感じたことである。次週は、いよいよみね子が上京することになるようだ。これも、楽しみに見ることにしよう。