『楡家の人びと』北杜夫(新潮文庫)の解説2017-04-26

2017-04-26 當山日出夫
2017-05-03 追記、この記事は、つぎのつづきである。
やまもも書斎記 2017年4月15日
『楡家の人びと』北杜夫(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481451

新潮文庫版の『楡家の人びと』の解説について、すこしだけふれておきたい。解説を書いているのは、辻邦生である。この作品の文庫本解説としては、まさにうってつけの人物であることはいうまでもない。辻邦生と北杜夫の若いときからの親交は、知られていることである。

その解説は、三島由紀夫の引用からはじまる。確認のため、その箇所を、孫引きで記しておくと、三島は次のように書いている。

「この小説の出現によって、日本文学は真に市民的な作品をはじめて持ち、小説というものの正統性(オーソドクシー)を証明するのは、その市民性に他ならないことを学んだといえる」(p.375)

これをうけて辻邦生は、この小説について、それまでの日本文学が、人間はいかに生きるべきかという探求と苦悩の文学であったことを指摘する。そのうえで、

「こうした精神風土のなかでは、当然ながら、市民的な文学は育ちにくかった。少なくとも俗人性や凡庸性にしみじみと見入り、そこに人間を感じ、人間の宿命を見る文学は生れなかった。」(p.376)

として、俗人性、凡庸性の小説として、『楡家の人びと』を高く評価している。時代の流れの中に生きる人間の有様を、叙情性とユーモアを交えて描く、この小説について、深く言及してある。

この評価は、私は正しいと思う。そして、これから先に考えなければならないことは、俗人性、凡庸性の文学の系譜が、現代文学にどのように受け継がれてきているのか、あるいは、いないのか、ということの議論になるだろう。

現代文学、ことに文壇にうとい私としては、これから先の議論はできない。しかし、文学をどのように読むかとして、そこに、人間はいかに生きるべきかという探求や苦悩を主に読みとるのではなく、時代の中にあって、生まれ、生き、死んでいく人間の哀切を愛おしく描く小説もあってよい。また、それは、それとして評価されなければならない。

このように考えてみて……私の脳裏にうかぶのは、石坂洋次郎の作品である。今ではもう読まれない作家になってしまった。石坂洋次郎の作品は、私の若いころまでは、普通に読まれていたものである。

凡庸な人間の普通の生活を時代の流れのなかで描くという観点からは、石坂洋次郎の作品など、改めて評価されてもいいのではないかと思う。私が、定期的に、だいたい10年おきぐらいに読み返している石坂洋次郎の小説がある。『若い人』である。

そういえば、『楡家の人びと』もNHKでドラマ化したのを憶えているが、『若い人』もNHKでドラマになっている。私が、高校生のころだったろうか。松阪慶子、石坂浩二の主演だった。今でもそのキャストのほとんどを憶えている。

ところで、夏目漱石の作品などはどうであろうか。『こころ』などは、人間はいかに生きるべきかという問いかけの小説と読める。だが、『坊っちゃん』などは、市井の人間の小説でもある。特にそこに人間の苦悩を読みとることもないと思う。

文学作品を読むとき、そこに、人間はいかに生きるべきかという問いかけをもって読むのもよいが、時代のなかで、市井に生きる人間の生き方に共感するような小説もあってよい。このような小説も貴重である。この意味において、『楡家の人びと』は、日本の近現代の文学における重要な作品であると思う。

追記 2017-05-03
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月3日
『楡家の人びと』北杜夫(その七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/03/8512351