『ひよっこ』あれこれ「旅立ちのとき」 ― 2017-04-30
2017-04-30 當山日出夫
ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html
ひよっこ 第4週 旅立ちのとき
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/04/
今週もいろいろ見どころはあったと思うが、私の感想としては、次の三点ぐらいに集約できるだろう。
第一に、週の初めに出てきた、おじさんとビートルズ。時代の背景としては、ちょうどビートルズがこの世界に登場してきた時期になる。ビートルズは、いってみれば、若者の自由の象徴であったといえるかもしれない。まだ、みね子は、ビートルズの音楽には興味はないようだ。これから、東京に出て、はたしてビートルズを聴くようになるのだろうか。
集団就職で出た東京における、みね子の若者の自由とはどのように描かれることになるのであろうか。
第二に、この週は、集団就職で東京に出て行く子どもたちを、送り出す立場……親であり、教師であり……を、実に細やかに描いていたと思う。みね子の母、祖父のみならず、時子の家、三男の家、それぞれの家庭において、それぞれの思いがあることが、丁寧に描写されていた。また、教え子を送り出す教師としての立場というものも、描かれていた。
就職率が何パーセントというような数字に還元されてしまうことのない、個々の生徒ひとりひとりの行く末を案じる教師の立場というものが、印象的であった。
第三に、週の半ばでの卒業式。卒業すれば、東京に出て行って、みんな離ればなれになる、そのような仲間との最後のシーンがよかった。『あおげばとおとし』の歌が、実に効果的につかわれていた。それから、ちょっとだけれど、みね子たちが、肩を組んでうたっていた歌がある。
「思い出すだろ なつかしく」のフレーズ。これは、『高校三年生』舟木一夫の二番の歌詞にある。
http://www.uta-net.com/song/13873/
https://www.youtube.com/watch?v=jnNvTTDZJvc
ただ、これは、ナレーションで説明があった方がよかったかもしれない。
だいたい以上の三点が、この週の主な感想といったところである。
ところで、最後の土曜日の放送のとき、みね子たちと同じ職場ではたらく、中卒の女の子とが出てきた。青天目(なばため)という。眼鏡をかけている。私は、テレビの登場人物が眼鏡をかけていると、本当の眼鏡(レンズがはいっているかどうか)確認することにしているのだが、この女の子の眼鏡は、レンズになっていた。近眼である。
ちなみに、朝ドラの前作『べっぴんさん』でも、登場人物で眼鏡をかけている人がいたが、それは、素通しで、レンズになっていなかった。
そして、最後で着目しておきたいのが、みね子たちが汽車の中で食べていたお弁当。あのおかずなどは、その当時としては、精一杯の御馳走である。これから、東京に出て行く子どもたちのために、それぞれの親が精一杯の気持ちをこめて作ったことが伝わってくる。
そのお弁当を、一緒になった女の子(青天目)に分けてあげていた。故郷から東京へ向かう、まさに「境界」の場所でのできごととして象徴的である。お弁当をわけてあげるという行為も、その当時としては自然なことであるし、また、同じお弁当を一緒に食べたということで、仲間にもなる。民俗学的にいえば、境界の領域における一種の通過儀礼とでもいってもよかもしれない。
また、上野駅は、まさに「境界」の場所として描かれていた。故郷から引率してきた先生は、上野駅で別れる。そこに、東京で働くところの人(和久井映見)が迎えに来る。まさに、故郷と東京都との結節点に位置する「境界」としての場所である。
次週は、いよいよ、みね子たちの東京での生活がはじまるらしい。これも楽しみに見ることにしよう。
ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html
ひよっこ 第4週 旅立ちのとき
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/04/
今週もいろいろ見どころはあったと思うが、私の感想としては、次の三点ぐらいに集約できるだろう。
第一に、週の初めに出てきた、おじさんとビートルズ。時代の背景としては、ちょうどビートルズがこの世界に登場してきた時期になる。ビートルズは、いってみれば、若者の自由の象徴であったといえるかもしれない。まだ、みね子は、ビートルズの音楽には興味はないようだ。これから、東京に出て、はたしてビートルズを聴くようになるのだろうか。
集団就職で出た東京における、みね子の若者の自由とはどのように描かれることになるのであろうか。
第二に、この週は、集団就職で東京に出て行く子どもたちを、送り出す立場……親であり、教師であり……を、実に細やかに描いていたと思う。みね子の母、祖父のみならず、時子の家、三男の家、それぞれの家庭において、それぞれの思いがあることが、丁寧に描写されていた。また、教え子を送り出す教師としての立場というものも、描かれていた。
就職率が何パーセントというような数字に還元されてしまうことのない、個々の生徒ひとりひとりの行く末を案じる教師の立場というものが、印象的であった。
第三に、週の半ばでの卒業式。卒業すれば、東京に出て行って、みんな離ればなれになる、そのような仲間との最後のシーンがよかった。『あおげばとおとし』の歌が、実に効果的につかわれていた。それから、ちょっとだけれど、みね子たちが、肩を組んでうたっていた歌がある。
「思い出すだろ なつかしく」のフレーズ。これは、『高校三年生』舟木一夫の二番の歌詞にある。
http://www.uta-net.com/song/13873/
https://www.youtube.com/watch?v=jnNvTTDZJvc
ただ、これは、ナレーションで説明があった方がよかったかもしれない。
だいたい以上の三点が、この週の主な感想といったところである。
ところで、最後の土曜日の放送のとき、みね子たちと同じ職場ではたらく、中卒の女の子とが出てきた。青天目(なばため)という。眼鏡をかけている。私は、テレビの登場人物が眼鏡をかけていると、本当の眼鏡(レンズがはいっているかどうか)確認することにしているのだが、この女の子の眼鏡は、レンズになっていた。近眼である。
ちなみに、朝ドラの前作『べっぴんさん』でも、登場人物で眼鏡をかけている人がいたが、それは、素通しで、レンズになっていなかった。
そして、最後で着目しておきたいのが、みね子たちが汽車の中で食べていたお弁当。あのおかずなどは、その当時としては、精一杯の御馳走である。これから、東京に出て行く子どもたちのために、それぞれの親が精一杯の気持ちをこめて作ったことが伝わってくる。
そのお弁当を、一緒になった女の子(青天目)に分けてあげていた。故郷から東京へ向かう、まさに「境界」の場所でのできごととして象徴的である。お弁当をわけてあげるという行為も、その当時としては自然なことであるし、また、同じお弁当を一緒に食べたということで、仲間にもなる。民俗学的にいえば、境界の領域における一種の通過儀礼とでもいってもよかもしれない。
また、上野駅は、まさに「境界」の場所として描かれていた。故郷から引率してきた先生は、上野駅で別れる。そこに、東京で働くところの人(和久井映見)が迎えに来る。まさに、故郷と東京都との結節点に位置する「境界」としての場所である。
次週は、いよいよ、みね子たちの東京での生活がはじまるらしい。これも楽しみに見ることにしよう。
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