学生にメールを書かせる2017-05-01

2017-05-01 當山日出夫

これまで、学生には、あまり電子メールでのやりとりをしてこなかった。

そろそろ、強制的に、学生に、電子メールを書かせることを課題として与える必要があるようにも感じている。

というのは、最近、うわさに聞く話だと、今の学生は電子メールが書けない、ということらしい。友達と、LINEのやりとりを主にしていると、メールの書式ということが身につかない。LINEは、ただ直接的にその内容が表示される。Facebookでも同じである。また、Twitterもそうである。件名を書く必要がない。また、その書く内容の書式もきまったものがない。自由に、思ったことをそのまま書けばいいというのが、普通の使い方だろう。(ただ、FBでも、Twitterでも、きちんと自分の思ったことを伝えるためには、それなりの文章力が必要ではある。LINEでもそうだろう。)

今のところ、紙にプリントアウトしたものを提出、ということにしている。卒業してからのビジネススキルとして、形式、書式のととのった文書作成ができないと困ると思うからである。

だが、それも次の段階にさしかかってきているようだ。電子メールも、社会的に普及してきているという時代において、電子メールの書式ということをトレーニングする場も必要になってきていると感じる。それは、まず、授業の提出物とか、教員とかの連絡を、電子メールで行うということから、設定する必要があるのかもしれない。

これも、これからの試行錯誤ということになるかと思っている。

『おんな城主直虎』あれこれ「消された種子島」2017-05-02

2017-05-02 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年4月30日、第17回「消された種子島」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story17/

前回は、
やまもも書斎記 2017年4月25日
『おんな城主直虎』あれこれ「綿毛の案」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/25/8498866

私の視点で見て、今回の見どころは、次の二点。

第一点は、種子島(=鉄砲)が登場してきたシーン。これを、武士ではない、百姓(足軽、雑兵というべきか)の武器として認識していたこと。武術のたしなみ(馬、弓、槍、刀などだろうか)のないものにも使える武器という見方である。

私は、特段、戦国時代とか、合戦史に詳しいというのではないのだが、このドラマのこの視点は、斬新な気がした。鉄砲の伝来には、現在では諸説あるらしい。また、鉄砲というものが、それまでの合戦の有様を変えたということもいえそうである。

では、その鉄砲と武士、武家とは、どのような関係にあったのだろうか。侍の武器として認識されていたのであろうか。

この観点では、前作『真田丸』の最後の信繁(幸村)と家康の対決シーン。ここで、信繁がとりだしていたのは、鉄砲であった。はたして、鉄砲というのは、武士の本来の面目とどうかかわるのであろうか。

このドラマ、戦国の合戦シーンは出てこないようであるが、それに変わって、戦国時代、中世における、武士、領主とはいかなる存在であったか、いろいろ興味深い視点を提示している。

第二点は、五目並べのシーン。幼い虎松は、五目並べに勝てない。

五目並べといえば、私が主出すのは、『涙香迷宮』である。今年の、「このミス」第一位になったミステリ。

やまもも書斎記 2017年1月3日
『涙香迷宮』竹本健治
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/03/8301083

この作品のなかでさんざん書かれていたこと、それは、五目並べ(連珠)においては、先手の方が圧倒的に有利である、ということ。この目で見てみると、ドラマでは、虎松は、後手で打っていた。これなら、負けてもしかたない。

で、直虎は、虎松に勝つ秘策をさずけるようなのだが、どうも、先手をとれとは言っていなかったようである。相変わらず後手になっていた。直虎はいったい何を言ったのだろうか。勝てるまであきらめるな、とでも言ったのかもしれない。

以上の二点が、今回の「消された種子島」を見て思ったことである。

なお、今回も出てきた、旅の男(柳楽優弥)の存在が気になる。一箇所に定住しない人物。このような漂白の人物が、中世には(あるいは、近世になってからも)いたのであろう。この人物が、これからの展開にどうかかわってくるか、気になるところである。

追記 2017-05-09
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月9日
『おんな城主直虎』あれこれ「あるいは裏切りという名の鶴」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/09/8550386

『楡家の人びと』北杜夫(その七)2017-05-03

2017-05-03 當山日出夫

つづきである。

やまもも書斎記 2017年4月14日
『楡家の人びと』北杜夫(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481451

やまもも書斎記 2017年4月26日
『楡家の人びと』北杜夫(新潮文庫)の解説
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/26/8500008

『楡家の人びと』について、思ったことを書いてきて、これはどうしても書いておきたいと思っていたことがある。それは、この小説が、脳病院を舞台にしたものであり、そのため、作中には、多くの、精神病者が登場する。そして、重要なことは、その精神病者たちを、作者(北杜夫)が、実に愛情をこめて描いていることである。

近現代の文学で、精神病をあつかった作品がないではない。最近読んだ、あるいは、話題になっている作品としては、『死の棘』がある。

やまもも書斎記 
『死の棘』島尾敏雄2017年1月27日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/26/8333549

おそらく、精神病をとりあつかった文学作品としては、『死の棘』と『楡家の人びと』は、対極に位置する。『死の棘』では、私小説として、精神を病んでいく妻のすがたを見つめる夫(作者)の視線が、ある意味で冷酷ともいえるような面をふくんでいる。もちろん、妻への愛情があってのことであるが。

それに対して『楡家の人びと』に登場する精神病者たちは、どれも明るい。むしろ、普通の人間よりも、むしろ人間的であるといってもよい。しかも、それが、独特のユーモアをもって描かれる。ここには、精神病にまつわる暗さとか苦悩とかいうものは、まったない。

これは、おそらく、作者(北杜夫)の生いたち、経歴からして、幼いときより精神病者に親しんできたということもあるのだろうとは思う。だが、そうであるにしても、一般市民、庶民、国民の小説として『楡家の人びと』を書き、そのなかに、精神病者が、普通の人たちと同じようにあつかわれて登場している、これは、これとして、特筆すべき、この作品の特徴であるといってよかろう。

えてして、精神病者には、社会的な偏見がつきまといがちである。そのなかにあって、あくまでも健全な愛情をそそいでいるこの小説の描き方が、日本の近現代文学のなかにあって貴重であるといわざるをえない。

そして、そのような目で見れば、作中の登場人物……たとえば、米国(よねくに)とか……これも、どこかおかしい、といって精神病というわけでもないだろう。だが、このような登場人物を設定することによって、普通の人間と、精神病の人との間に、そんなにちがいはないのであるということが、じんわりとつたわってくる。

いや、むしろ、精神病者の方が、ある意味で、より人間的であるともいえよう。

精神病者への愛情のあるまなざしと、一般の市井の人びとへのまなざしに、この作品では、違いがない。ともに、ある意味でその人生の滑稽さを見る視点がある。このような意味においても、『楡家の人びと』の精神病者のあつかいは、特筆すべきものがあると私は思っている。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン2017-05-04

2017-05-04 當山日出夫

トーマス・マン.望月市恵訳.『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

北杜夫の『楡家の人びと』を読んだら、この本が読みたくなった。いや、この本は、若いときに手にした経験がある。だが、途中で(最初の方で)挫折してしまったような記憶がある。

たぶん、あまりなじみのないドイツ語の固有名詞(特に人名など)が、たくさん出てくるし、登場人物の関係が、その人名だけからはわかりにくい。

今、この歳になってもう一度読んでみたくなった。今は、第三巻目である。

今回、読み返してみて、こんなに面白い小説だったのか、と認識をあらたにした。『楡家の人びと』を面白く読むことのできる読者なら、この『ブッデンブローク家の人びと』も面白く読めるにちがいない。ただ、最初は、やはりとりつきにくいところのある小説ではある。

この小説については、いろいろ言えるだろうが、ここでまず書いておきたいのは登場人物……トーニ……のことである。

若いころ、学生のころ、日本文学、世界の文学の中で、どのような人物が魅力的か、特に、どの女性が好きか、というようなことを話した記憶がある。そのころの私の読書の範囲内でいえば、『罪と罰』のソーニャとか、『それから」の三千代とか、『片恋』のアーシャとか、思い浮かんだものである。

もし、その時に『ブッデンブローク家の人びと』を読んでいたら、文句なしにトーニの名前をあげたにちがいない。

それほど、この女性は、魅力的である。いや、魅力的、といったのでは十分ではない。特異な個性、ある種の傍若無人ぶりがありながらも、かわいく、にくめない性格。あくまでも人生を肯定的に生きていく。おそらく、この小説のなかで、もっとも個性的で魅力的な登場人物はといわれれば、このトーニということになるにちがいない。

そして、このトーニの人物造形をどことなく引き継いでいるのが『楡家の人びと』の龍子と桃子というふうに理解していいのだろう。似ているというわけではないのだが、作品を牽引していく個性的人物、それも女性として、この存在は大きい。たぶん、北杜夫も、このトーニをかなり意識して、書いたにちがいないだろうと推測される。

小説を読むということ、文学作品にふれるということ……今では、もう、あまりはやらなくなってしまったことかもしれない。だが、ある程度歳をとってしまってから、昔、手にした小説を再び読んで、ああ、こんな人物がいるんだ、と面白く思えるというのも、この世の楽しみの一つであろう。

魅力的な登場人物にであえる楽しみ、それこそ、小説を読むことの醍醐味にほかならないともいえよう。

この作品について書きたいことは、まだあるが、それはまた改めて。読み終えてからのことにしたい。

追記 2017-05-05
このつづきは
やまもも書斎記 2017年5月5日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/05/8543812

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その二)2017-05-05

2017-05-05 當山日出夫

つづきである。

やまもも書斎記 2017年5月4日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/04/8523322

岩波文庫版で三冊。今、その三冊目を読んでいる。

まず、昔読みかけた本を再読してみようとして、『魔の山』(トーマス・マン)を読んだ。すると、北杜夫が読みたくなって、『楡家の人びと』を読んだ。そうすると、そのもとになったとされる作品、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を読んでおきたくなった。この本も、若いときに読みかけたことのある本であるが、途中で挫折してしまった。

こんなに面白い小説であったのかと思う。そして、ある意味、これが、高校生、あるいは、大学生ぐらいの時にわからなくても、いたしかたないかなという気もしている。ちょっとなじみのないドイツ語の固有名詞、それから、当時の、上流階層の市民生活、そして、ドイツならではの生活習慣とか社会制度とか、ある程度のことがわかっていないと、この作品の世界に入っていけない。だが、一度、この作品世界にはいってしまうと、あとは一気に読んでしまうことになる。

とにかく、登場人物が個性的で面白い。特に、トーニという女性。このことについては、昨日書いた。それから、トーマスも。実直な実業家という設定であるが、どことなく滑稽な人生でもある。

では、なぜ、作者は、一族の没落を描いているのであろうか。その隆盛ではなく。

たぶん、それは、ある価値、生活、についての「喪失感」なのではないだろうかと思う。この作品は、たしかに、歴史的な大河ドラマのような小説であると同時に、全編に、ユーモアがある。だが、この小説が書かれたときには、小説に描かれたような生活が、もはや過去の失われてしまったものになった時から、回想して書いていることになる。そこにあるのは、かつてあったもの、生活、社会への憧れをふくんだ喪失感でしかありえないだろう。

この意味で、思い浮かぶのは、『細雪』である。谷崎潤一郎の『細雪』について、内田樹は、失ってしまったものへの哀惜の念に満ちた小説であるという意味の判断をしていた。私は、これに深く同意する。

やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499

『ブッデンブローク家の人びと』は、『細雪」とはずいぶん傾向が異なる。しかし、かつてあった生活、社会への憧憬をふくんだ喪失感という意味では、共通するものがあるようにも感じる。しかも、それは、戦争……第一次世界大戦であり、また、太平洋戦争である……をはさんで、かつてあったものへの喪失感といってもよい。

第一次世界大戦の前のドイツの市民(しかも上流の)について、実際に知っているわけではない。同様に、太平洋戦争前の阪神間の中流の生活についても、知らない。しかし、ともに、それらが失われてしまったものである、という点においては、共通している。

歴史の流れのなかで失われてしまったものへの哀惜の念、この点においては、『ブッデンブローク家の人びと』と『細雪』は共通する。おそらく、一般には、『楡家の人びと』と比較されることが多いであろう。私も、そのつもりで読んだ。たしかに、北杜夫は『楡家の人びと』を書くにあたって、『ブッデンブローク家の人びと』にならって書いている。

だが、今、私が感じるのは、むしろ『細雪』との共通性の方である。大きな歴史の流れのなかにあって、ある生活とその生活の感覚が失われてしまった、そのことの喪失感という点において、これらの文学作品は、我々に共感をよびおこす。では、現代、二一世紀のわれわれにとって、失ってしまったものとはなんであろうか。ふとそのようなことを思ってみたりもする。

追記
この文章を書いてから、ようやく全巻を読み終わった。一族は、没落するのであるが、基本的に、私のこの作品についての感覚……喪失してしまったものへの哀惜の念……ということはかわらない。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)2017-05-06

2017-05-06 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月5日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/05/8543812

ようやく三冊を読み終わったので、まとめての感想などいささか。

この『ブッデンブローク家の人びと』と、『楡家の人びと』との関連については、さんざん書かれていることであろうから、特につけたすほどのこともないと思う。作中の登場人物でいえば、トーマス、ハンノ、クリスチアン、それから、トーニ……これらの登場人物は、徹吉、周二、米国(よねくに)、桃子、龍子、などの人物に重なって理解されることになるであろうか。特に、モデルとしたということではなく、なんとなく、ああこの人物のことを思うかべるなあ、という印象をいだいて読むことになる、という程度の意味においてであるが。

時間の関係だけ確認しておくならば、『ブッデンブローク家の人びと』が刊行されたのは、1901年。第一次世界大戦の始まりは、1914年である。(岩波文庫版の年譜による。)

だから、第一次世界大戦の結果をうけて、書かれたという本ではない。しかし、内容的には、第一次世界大戦より前の人びとの暮らし、それも、ドイツにおける上層の市民生活というべきものを描いていると読める。意図してそうなったことではないのかもしれないが、結果的に、(昨日書いたように)失ってしまったものへの哀惜の念に満ちた小説として読まれることになった、そう理解していいだろう。

このことを岩波文庫版の解説では、次のようにある、

「しかし、マンが考えなかったのは、「ブッデンブローク家の人びと」が市民時代の白鳥の歌であったことであった。「ブッデンブローク家の人びと」がイギリスの、フランスの若者のこころを打ったのは、市民時代の終わりの歌である点であった。市民時代のあとにつづくものが、帝国主義であるか、それとも、労働者階級の凱歌であるか、それは今でも決定していない。二十世紀が終わるまでには、市民時代につづく時代は、決定しないかもしれない。」(p.365)

そして、今は二十一世紀をむかえている。この解説が書かれたのは、昭和44年(1969年)である。まだ、東西冷戦のまっただなかの時代。その後、ベルリンの壁の崩壊があり、二十一世紀になって、この国際社会のゆくえは、不透明さをますばかりである。このような時代にあって、なおこの小説が読まれ続けるとするならば、まさに、この小説が描いたような「市民」の時代があった、そして、それを、二度の大戦で失い、その後の歴史的激変のなかで、ゆくえさだめぬ日々をくらすわれわれにとって、なにかしら郷愁……失ったものへの憧憬をふくんだ哀惜の念……を感じるからにほかならないであろう。

もちろん、このように考えなくても、この小説は、それ自体として非常に面白い。全編にわたってユーモアにみちており、ある時代のある一族の盛衰を描いた作品として、読むに値する。また、『トニオ・クレーゲル』にみられるような、芸術家というものを、どこか冷めた目で見る視点を提供してくれるものとして、この作品はある。

この小説は、ある一族の没落の物語である。ただ、衰退するというだけではなく、最後には、芸術……ハンノは音楽に特異な才能をしめしている……が、残る。だが、芸術が何になるというのであろうか。トーマス・マンは、自身のことを芸術家と思っていたかもしれないが、しかし、芸術至上主義の立場をとってはいない。このことは、むしろ『トニオ・クレーゲル』を読むことによって感じる。

芸術と、市民社会の健全な一員であることは両立しないのであろうか。この問いは、今日、二十一世紀の今になっても、答えの出ている問題ではない。しかし、芸術とは何か、芸術家は社会にとっていかなる存在であるのか、それを考える視点を、この小説は提示している。

ともあれ、私は、この作品を、19世紀のドイツにおける市民社会を描いた作品、そして、それは、われわれがもう失ってしまったものである、このように理解して読んでおきたいと思う。

『ひよっこ』あれこれ「乙女たち、ご安全に!」2017-05-07

2017-05-07 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

ひよっこ 第5週 乙女たち、ご安全に!
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/05/

今週は、みね子たちが東京に出てきて就職して、仕事をはじめる。この週で興味深かったのは、みね子たちの同じ部屋の女性たち、それから愛子さんの存在。

みね子は、どうしても仕事がうまくいかない。ミスをしてばかりである。そんなみね子をめぐって、夜の寮の部屋で、女性たちの口論がはじまる。はじめは、ささいなきっかけからはじまった口げんかだったが、次第に、本気になる。みね子は、途中まで寝たふりをしていたが、起きてしまい、それに加わる……この一連のけんか騒ぎ。それから、最初の休日で、今日はどこにでかけようか、何をしようかとそれぞれに計画のある女性たち。

これらの一連の寮の部屋でのシーンは、なにかしら群像劇を見るような気がする。故郷から集団就職で東京に働きに出てきた女性たちは、みんな事情がある。澄子は、農業をやっていて日曜日などなかった生活。日曜日に寝るだけが楽しみであるという。しかも、母が死んで、父が再婚したのでもう自分の居場所がない。豊子は、女には学問はいらないと、中学での勉強もおおっぴらにできなくて、通信制とはいえ、堂々と勉強ができることを幸せに感じる。また、女優になりたくて、映画会社などを回るという時子。そして、父がいなくなったので、その手がかりをもとめに赤坂に行くというみね子。

集団就職で、同じ工場に働き、同じ部屋に寝起きすることになった女性たちであるが、それぞれに、かかえている故郷の事情はちがっている。そして、その背景の違いが、工場での言動に反映する。それが、原因で、夜の寮での口論になったりもしたのだが。

工場の寮の一部屋を舞台にして、昭和40年頃の、日本の地方と都市の縮図を、群像劇で描いてみせたような感じの週であった。

また、舎監の愛子さんの存在も大きい。頑張れ。大丈夫、そのうちできるようになるから。愛子さんは、女性たちに呼びかける。その愛子さんも、同じ工場で働いてきた過去がある。そして、戦争で亡くなってしまった婚約者。どこか暗い過去があるからこそ、これからの未来のある女性たちを、励ます存在でありうるのだろう。

このドラマの良さは、同じ工場の寮で一緒になった女性たちの、それぞれに故郷に対して背負っているもの、その生活の背景にあるものを、愛情をこめて、しかも、個性的に描き出しているところにあるのだろう。

なお、この週にでてきた、寮の部屋での一件は、やはり一種の「通過儀礼」のようなものなのだろう。みね子は、澄子と汽車で一緒になる。また、豊子と上野駅で一緒になる。「駅」というのは「境界」の空間である。その「境界」をともにくぐりぬけて、同じ工場の寮に入り同じ部屋になる。そして、食事も一緒にする。そして、おこる喧嘩騒ぎ……この一連の出来事が「通過儀礼」として、みね子は仕事を失敗しなくなる。また、みね子とそれをとりまく女性たちが同じ仲間として意識されるようになる。

この週ででてきた歌……『ぼくらはみんな生きている』『恋のバカンス』これらは、私は憶えている。映画『マイ・フェア・レディ』は、見てはいるが、後年になってリバイバル上映されたときのことである。見たのは高校生になってからだったろうか。

次週は、いよいよ赤坂のすずふり亭がでてくるようだ。楽しみに見ることにしよう。

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)2017-05-08

2017-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月6日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/06/8545571

トーマス・マン.望月市恵(訳).『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

この小説を読んでいて気になったことをちょとだけ。

第一は、「コンズル」ということばについてである。読み始めて、最初のうちは、このことばは固有名詞(人名)だと思っていたが、そうではない。読んでいくと、「コンズル」といわれる人物がたくさん出てくる。そのうちで、もっとも頻繁に出てくるのが、この小説の一族の長としてではあるが。

ジャパン・ナレッジで「コンズル」を検索してみた。すると、

男性名詞
1.領事
2.(古代ローマの)執政官
ポケットプログレッシブ独和辞典

とある。「領事」とあるだけではよく分からないのだが、読んでいくと、当時の「市民社会」において、一定の地位にあることをしめす称号のように読み取れる。

このことば、この『ブッデンブローク家の人びと』という小説を理解するうえでは、きわめて重要なことばだと思うのだが、なぜか、訳注とか、解説とかはない。たぶん、今、この小説を翻訳するならば、丁寧な注か解説をつけるべきことばになるだろう。

この本(翻訳、岩波文庫)の出た当時であれば、この程度のドイツ語は、一般教養として知っているということが前提であったのかもしれない。

第二は、「舌鼓」の用例である。

やまもも書斎記 2017年4月22日
「舌鼓」は「したつづみ」か「したづつみ」か
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/22/8496134

このことばが、『ブッデンブローク家の人びと』の翻訳文中にも登場する。

上巻、p.236

下巻、p.54

に、「舌鼓」の漢字に「したづつみ」と振り仮名がある。

だからといって、「したづつみ」の方が正しいと主張するつもりはない。両方の語形が行われているなかで、その片方「したづつみ」の使用例として、あげて記録にとどめておきたいのである。

『おんな城主直虎』あれこれ「あるいは裏切りという名の鶴」2017-05-09

2017-05-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年5月7日、第18回「あるいは裏切りという名の鶴」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story18/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年5月2日
『おんな城主直虎』あれこれ「消された種子島」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/02/8510238

今回は、ネコが再び登場していた。なんとなくうれしい。

で、この回の感想としては、ちょっと説明しすぎの脚本かなという気がしなくはない。このドラマの脚本は、わかりやすい、というのが特色だろうと思っている。しかし、あからさまに説明してしまうのは、どうかというところもある。

政次(鶴)は、なぜ後見になりたがるのか……それは、井伊をまもるためである、そして、その底には、かつてのおとわへの気持ちがまだ残っている、というあたりのことであろうか……これは、説明してしまっては、みもふたもない話しになってしまう。ここは、直虎にあまり説明的な台詞をいわせずに、それとなく描く方がよかったのではないだろうか。

それから気になったのは、戦国時代、鉄砲は、どのように生産され、流通したのであろうか、ということ。今川でも、鉄砲の生産を始めることになったようだが、原材料、それから、技術の面で、どうなのであろうか。それに、火薬も必要になるし。

このあたりのことは、戦国時代の歴史に不慣れなので、よくわからないことなのだが、気になっている。

また、綿が収穫されていた。たぶん、当時の史料にもとづいて、糸繰りの場面など作っているのだろう。だが、綿は、生産されて、その場で糸に加工されたのだろうか。加工業者は別にいたのかもしれない。このあたりも、ちょっと気になるところ。

綿(綿花)の生産と、製糸と、織物と、それぞれ、どのように分担されていたのか。一つの村で、全部をやっていたのだろうか。中世の綿産業史というようなことは、どの程度研究されているのだろうか。

このあたり、「銭の犬」=方久の役割と関連して、綿が産業としてこれからの井伊の一族にどのようにかかわっていくのか、興味深いところである。

それから、最後に出てきた、旅の男(柳楽優弥)、なにかいわくありげな様子である。この人物が、たぶん、これからの井伊のあり方に深く関わっていくのだろうと思う。

なお、どうでもいいことのようだが、出てきた『孫子』の本。題簽が明朝体のワープロ作成とおぼしきものであった。これは、この時代には、ちょっとおかしいだろう。

次週も、またネコが出てくるだろうか。

追記 2017-05-16
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月16日
『おんな城主直虎』あれこれ「罪と罰」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/16/8560810

『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)2017-05-10

2017-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月8日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/08/8548850

トーマス・マン.望月市恵訳.『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫).岩波書店.1969

上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247748.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247749.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247750.html

本を読みながら、付箋をつけた箇所についていささか。

この小説は、19世紀ドイツの「市民」の小説である。それは、ある意味では、貴族に対する意味でもちいられる。たとえば次のような箇所、

「ある人間は、生まれたときから選ばれた人間で、貴族の家に生まれ、……ぼくたちを軽蔑して見下すことができ、……ぼくたちはどんなに能力があっても、貴族にはなれないんですか?……」(上巻 p.197)

「ぼくたち庶民階級の者、今までぼくたちが呼ばれてきた第三階級の者は、地上の功績による貴族だけが存在するようにと要求し、怠惰な貴族を認めず、現在の階級の差を否定します。……すべての人間が自由であり平等であって、だれも特定の人間に従属することなく、すべての人間が法律にのみ従属していることを要求します!」(上巻 p.198)

ここで、いわれてる庶民、第三階級というのは、いわゆるブルジョアといっていいのだろう。富裕な都市市民階層である。この小説の基調をなしているのは、この市民階層の自覚である。

そして、この階層の人びとがもとめるのは、「自由」である。

「「自由を」とモルテンは言った。
「自由を」とトーニは聞き返した。」(上巻 p.202)

だが、その市民階層の繁栄も、今後永遠につづくことを予期しているというわけではないようだ。結果的には、この小説は、一族の没落を描くことになるのだが、それが象徴的に言及されている箇所。

「表面に現れるシンボルは、現れるのに時間がかかるんだよ、空のあの星のようにね。最も明かるそうに光っているときは、ほんとうはもう消えかかっているんじゃないか、もう消えてしまっているんじゃないか、ぼくたちにはわからないよ。……」(中巻 p.266)

このような箇所を読むならば、一族……市民階層……の没落というのは、歴史の宿命のようなものであり、それが光かがやいていると思われるのは、すでにそれが滅亡へとむかっているときなのである、このようなメッセージを読みとることもできるだろうか。貴族に対抗するものとして、市民社会の勃興ということはあったかもしれないが、それは、すでに滅びを内蔵しているものである。この文庫版の解説にしたがえば、だからこそ、この小説は、市民社会の白鳥の歌として読まれることになった。

第一次世界大戦以前のドイツの市民社会の繁栄、それを、われわれはもう体験としては知らない。だが、その喪失感というものは、憧憬をふくんだ哀惜の念とともに、共感できるものである。われわれの世界がすでに失ってしまった、ある社会があったことの喪失の物語として、この小説は、二十一世紀の今日においても、まだ、読まれ続けていく価値のある作品であると思うのである。

追記 2017-05-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月11日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/11/8553926