『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その二)2017-05-05

2017-05-05 當山日出夫

つづきである。

やまもも書斎記 2017年5月4日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/04/8523322

岩波文庫版で三冊。今、その三冊目を読んでいる。

まず、昔読みかけた本を再読してみようとして、『魔の山』(トーマス・マン)を読んだ。すると、北杜夫が読みたくなって、『楡家の人びと』を読んだ。そうすると、そのもとになったとされる作品、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を読んでおきたくなった。この本も、若いときに読みかけたことのある本であるが、途中で挫折してしまった。

こんなに面白い小説であったのかと思う。そして、ある意味、これが、高校生、あるいは、大学生ぐらいの時にわからなくても、いたしかたないかなという気もしている。ちょっとなじみのないドイツ語の固有名詞、それから、当時の、上流階層の市民生活、そして、ドイツならではの生活習慣とか社会制度とか、ある程度のことがわかっていないと、この作品の世界に入っていけない。だが、一度、この作品世界にはいってしまうと、あとは一気に読んでしまうことになる。

とにかく、登場人物が個性的で面白い。特に、トーニという女性。このことについては、昨日書いた。それから、トーマスも。実直な実業家という設定であるが、どことなく滑稽な人生でもある。

では、なぜ、作者は、一族の没落を描いているのであろうか。その隆盛ではなく。

たぶん、それは、ある価値、生活、についての「喪失感」なのではないだろうかと思う。この作品は、たしかに、歴史的な大河ドラマのような小説であると同時に、全編に、ユーモアがある。だが、この小説が書かれたときには、小説に描かれたような生活が、もはや過去の失われてしまったものになった時から、回想して書いていることになる。そこにあるのは、かつてあったもの、生活、社会への憧れをふくんだ喪失感でしかありえないだろう。

この意味で、思い浮かぶのは、『細雪』である。谷崎潤一郎の『細雪』について、内田樹は、失ってしまったものへの哀惜の念に満ちた小説であるという意味の判断をしていた。私は、これに深く同意する。

やまもも書斎記 2017年2月1日
『細雪』谷崎潤一郎(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/01/8346499

『ブッデンブローク家の人びと』は、『細雪」とはずいぶん傾向が異なる。しかし、かつてあった生活、社会への憧憬をふくんだ喪失感という意味では、共通するものがあるようにも感じる。しかも、それは、戦争……第一次世界大戦であり、また、太平洋戦争である……をはさんで、かつてあったものへの喪失感といってもよい。

第一次世界大戦の前のドイツの市民(しかも上流の)について、実際に知っているわけではない。同様に、太平洋戦争前の阪神間の中流の生活についても、知らない。しかし、ともに、それらが失われてしまったものである、という点においては、共通している。

歴史の流れのなかで失われてしまったものへの哀惜の念、この点においては、『ブッデンブローク家の人びと』と『細雪』は共通する。おそらく、一般には、『楡家の人びと』と比較されることが多いであろう。私も、そのつもりで読んだ。たしかに、北杜夫は『楡家の人びと』を書くにあたって、『ブッデンブローク家の人びと』にならって書いている。

だが、今、私が感じるのは、むしろ『細雪』との共通性の方である。大きな歴史の流れのなかにあって、ある生活とその生活の感覚が失われてしまった、そのことの喪失感という点において、これらの文学作品は、我々に共感をよびおこす。では、現代、二一世紀のわれわれにとって、失ってしまったものとはなんであろうか。ふとそのようなことを思ってみたりもする。

追記
この文章を書いてから、ようやく全巻を読み終わった。一族は、没落するのであるが、基本的に、私のこの作品についての感覚……喪失してしまったものへの哀惜の念……ということはかわらない。

追記 2017-06-05
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月6日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/06/8545571