『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その六)2017-05-11

2017-05-11 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月10日
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/10/8552184

この小説の本筋とは関係ないことだが気になったことなので、書き留めておくことにする。それは、アーカイブズということについてである。

アーカイブズは、何も公的な公文書だけが対象であるのではない。個人のもの、家のものもある……このようなことは、アーカイブズ学の入門書を読めば書いてある。だが、個人、家のアーカイブズといって、日本ではどうもいまひとつどんなものか想像できないでいた。たぶん、アルバムとか日記などをさしていうのだろうと思っていた。あるいは、江戸時代の古文書(商家などの)をいうのだろうかと思っていた。

だが、『ブッデンブローク家の人びと』を読むと、おそらくこれがこの家、ブデンブローク家のアーカイブズなんだな、という場面がいくつか登場する。家族に起こったできごと、出産、結婚、死亡などの記録を書き留めたものがある。なにか、家族にできごとがあったとき、その時の家の長であるもの(コンズル)が、それに記入する場面が、何度となく登場する。そして、そのアーカイブズは、代々にわたって引き継がれ、書き継がれていくものとしてある。

作中では、特に「アーカイブズ」の用語はつかっていない。しかし、アーカイブズ学の予備知識をもって読むと、これがこの家のアーカイブズなんだなと理解される。

たぶん、ヨーロッパの市民社会において、各家の記録をなにがしかの文書にしたためてまとめて保存しておくということが、一般的になされていたのであろう。

このようなこと、小説の本筋とは関係がない。しかし、近代のヨーロッパ市民社会において、どのようにその一族が形成されていったのか、という観点からは、この家のアーカイブズの存在は意味のあるものだと思う。

なお、今般、デジタルアーカイブ学会ができる。ここに期待するところ、私としては少なからずある。といって、もう会員になって頑張ろうという気にはならないでいるのだが。静かに見守っていきたい。ただ、一言いっておけば、この近年の傾向……デジタルアーカイブの推進のなかにおいて、旧来の伝統的な紙資料、文書をあつかうアーカイブズ学への、リスペクトが必須であると思っている。

このような観点から、西欧近代社会におけるアーカイブズというものを、再度、日本においてもふりかえってみる必要があると感じている。