『白鯨』メルヴィル2017-05-13

2017-05-13 當山日出夫(とうやまひでお)

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004

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下巻
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この作品も、若い時読みかけて、途中で挫折したような記憶がある。あるいは、ひょっとすると最後まで読んだかもしれないが、もうすっかり忘れている。今回、岩波文庫版の新しい訳で、全三巻を読んでみた。

読んでみて……これは、面白い。だが、いったいこの小説の何が面白いのかとなると、その返答にこまるような小説である。ただの海洋冒険小説ではない(無論、そのように読むことのできる作品ではあるが。)白鯨(モービィ・ディック)は、何を表象しているのだろうか。それから、エイハブとはいったい何者か。ひたすらモービィ・ディックを追い掛けるその姿は、何を意味しているのか。

そして、作品中にふんだんに登場する、クジラについての蘊蓄。(これは、現在の研究の水準からすると、いくぶん問題もあるようであるが、その点は、この翻訳は、ちゃんと注がついている。)そもそも、クジラとは何者なのか。ただの捕鯨の対象というだけではない、海に生きる何かしらえたいのしれない生きもののようである。そして、何のために、こんな衒学的なクジラについての蘊蓄が延々と記述されているのか。

いや、その前にこれは、そもそも「小説」なのであろうか。確かに19世紀半ばに成立したこの作品は、近代文学としての小説という形式があって、そのうえになりたっていることはたしかなのであるが、しかし、語り手(イシュメール)は、単なる語り手でない。

また、その友となるクイークェグというのは、どう意味の存在なのであろうか。ただの航海、捕鯨の仲間ではない。終生の親友ともいえないようだ。クイークェグは、キリスト教徒ではない。白人(キリスト教徒)からすれば、異民族であり、異教徒である。そして、ふたりは、仲良く意気投合する以上の関係にあるようだ。イシュメールとクイークェグの人間関係も不可解な点が多い。

語り手である、イシュメールをふくめて、登場するものすべてが、何かしらの寓意をふくんだものとしてある。いったい何を表象しているのか。考えて見てもよくわからない。そして、この新しい岩波文庫版の解説をみても、寓意に満ちた小説であることは理解できるのだが、具体的に何を読みとるかということになると、読者にまかされているようである。

だが、寓意に満ちた小説は、そのまま読んでおけばよいのだと思う。そして、そこから、なにがしかのものを感じ取るところがあれば、それは、それとして、りっぱに文学として成り立っているのである。いや、この『白鯨』という小説は、下手な解釈を拒否して、ただその作品だけが屹立してなりたっているような感じさえする。

特に冒頭の章について、解説には、つぎのようにある。

「この冒頭の章は、『白鯨』が単なるイシュメールなる若者の個人的な成長と経験にかかわるビルドゥングスロマンでも、また単なる海洋冒険小説でもなく、全人類と全世界、いや全宇宙にもかかわり、さらにはアメリカそのものにもかかわる物語であるための基調をさだめる章でもある。」(p.437)

この小説を読んだ後、ああ読んだなという充足した読後感がある。と同時に、いったいこの物語は何なんだったんだろう、という疑念もいくぶん残る、そのような小説である。やはり、この作品が、世界文学のなかで名だたる名作として、読み継がれてきたのには、それなりの理由がある。そして、それは、いうまでもないことだが、自分の目で本を読んでみないことには、納得できないことである。全世界を表象するなにものかが、この小説のなかにはある。

とはいえ、若い時、この作品を読んであまり感心するところがなかったのも事実である。それほど、この作品のもつ寓意性というべきものは、いろんな解釈ができる。岩波文庫版の紹介文には「知的ごった煮」とある。この作品、ある程度の知的生活とでもいうべきものを経験した後でないと、そう簡単に分かるということはできないのかもしれない。

一般に文学というのは、ある程度年をとってから、読んでみて納得できるところのあるものでもあることを確認しておきたい。年をとってから文学を読む生活、というものもあってよい。