『白鯨』メルヴィル(その四)2017-05-18

2017-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年5月17日
『白鯨』メルヴィル(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/17/8562384

メルヴィル.八木敏雄(訳).『白鯨』(岩波文庫).岩波書店.2004
上巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247497.html
中巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247498.html
下巻
https://www.iwanami.co.jp/book/b247499.html

『白鯨』を読み終えて、やはり最後には、現代においてこの作品を読むとするならば、いったいどのように読めるか、ということを考えることになる。岩波文庫版の翻訳は、2004年時点のものである。この解説においては、たとえば次のようにある。

「アメリカはアフガンに侵入し、イラクにも多数の兵と武器をおくってなおも戦っているではないか。ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものとするいくらかキッチュな寓話として『白鯨』をよむ読み方もひらけてくる。」(pp.438-439)

としながらも、D.H.ロレンスの説をひいている。孫引きになるが、その箇所を引用すると、

「モービィ・ディックのことを「白色人種の最深奥に宿る血の実態、われわれの最深奥にある血の本質である」と看破した。」(p.439)

また、ロレンスは、こうも言っているという(これも孫引きになるが引用する)、

「メルヴィルは知っていた。彼の人種が滅ぶ運命にあることを彼は知っていた。彼の白人の魂が滅ぶこと、彼の白人の偉大な時代が滅ぶこと、理想主義が滅ぶこと、『精神』が滅ぶことを」(p.439)

そして、解説(八木敏雄)では、つぎのようにある、

「これをどう読むか。おそらく読者の頭の数ほどの読みがあるだろう。しかしし、『白鯨』はいかなる読みにもいささかもたじろぐことなく、これからも悠然と豊饒な言語の海を泳ぎつづけていくことだろう。『白鯨』は本質的にはアレゴリカルな作品である、しかも多重にアレゴリカルなそれなのである。」(pp.439-440)

「アレゴリー=寓意」の作品として、この『白鯨』をとらえている。しかも、それは、多重であるという。

だが、そうはいっても、この作品を現代の視点で読むならば、トランプのアメリカ、自国第一主義をかかげるアメリカ、その自国の権益を表象するものがモービィ・ディックではないのか……このような読み方もゆるされるであろう。

また、もちろん、この読み方は、数年後には、また別の解釈にとって変わられるにちがいない。この意味では、『白鯨』という小説は、常に、「アメリカ」を表象する小説でありつづけることになるのかもしれない。そして、「アメリカ」を表象するということは、ある意味では、今日の国際社会を表象することにもつながる。今の国際社会のありかたを、ピークオッド号になぞらえて考えて見ることも可能になる。

このように考えたとき、最後に、モービィ・ディックと共に海に沈んでしまうピークオッド号の宿命には、暗澹たるものを感じずにはおれない。

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