『ゴリオ爺さん』バルザック2017-05-27

2017-05-27 當山日出夫(とうやまひでお)

バルザック.平岡篤頼(訳).『ゴリオ爺さん』(新潮文庫).新潮社.1972(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/200505/

この作品も学生のときに読みかけて挫折した作品のひとつ。理由はいろいろあると、今になって思える。

第一に、文章がパラグラフ(段落)に分けて書いていない。これは、読みにくい。今、日本の平安時代の『源氏物語』でも、現代の活字本(校注本)は、適当なところでパラグラフに切ってある。ところが、19世紀フランス文学のこの作品の文章は、延々と改行なしで文章がつづいている。

これは、現代の普通の文章を読み慣れた目からすると、非常によみづらい。だが、おそらくは、これが、この作品の意図する文体、文章なのであろうとは、今になって読み返してみて、なんとか理解はできる。

第二に、歴史的、社会的背景を知らないと、この作品がよくわからない。まあ、私のフランスの歴史についての知識といえば、高校生のときに習った世界史の範囲をそう超えるものではないのだが、それでは、とても、この作品の背景を理解して味読するということができない。

この第二の点については、今でもそう変わらない。今更、フランスの歴史を勉強しても、それはそれなりに歴史書として読めるだろうが、フランス文学史の理解の手助けには、もうならないだろう。これは、若い時に、もう少し西欧の文学、文学史、歴史について勉強しておけばよかったと後悔することになる。

とはいえ、じっくりと本を読む時間をすごしたいと思うようになって、昔、手にしてそのままになっているような小説を読んでいると、この作品にも、ふと引き込まれるようなところがある。それは、年老いてひとりさびしく暮らす主人公(ゴリオ爺さん)の、孤独な心境と、娘を思いやる親の気持ちを描写しているような箇所には、おもわず作品世界に入り込んでしまう感じがする。特に、最後の方の、死をむかえるあたりの叙述には、この小説ならではの魅力がある。

解説によると、この作品は、バルザックの「人間喜劇」の中核的な存在になる作品だとある。だが、残念ながら、現在では、バルザックの作品は、そう多く翻訳で読めるという状況ではないようだ。

そのなかで、この『ゴリオ爺さん』だけは、今でも読まれ続けているようだ。私が読んだ新潮文庫版の他に、岩波文庫版、それから、光文社古典新訳文庫版などが出ている。

この作品の主人公は、ゴリオ爺さんであるが、そのほかに主要な登場人物としては、ラスティニャックがいる。パリの社交界に出ようという意欲に満ちた若者。こちらの登場人物に関心をもって読むか、それとも、ゴリオ爺さんの方に興味引かれるかは、読者の好みの問題かもしれない。たぶん、もっと若いときにこの作品を読んでいれば、ラスティニャックの生き方に関心をもって読んだだろう。しかし、私の年になって読んでみると、年老いたゴリオ爺さんの生き方に、気持ちがなびいてしまうのである。

だが、この作品を読むのに、19世紀のフランス、パリの、社会……いわゆる近代的な市民社会になるのだろうが……とか、上流の市民、貴族による社交界、などについての予備知識がないと、今ひとつ、作品についての理解がおよばない。ある種のもどかしさのようなものを感じてしまう。

そのようなものをとりはらっても、この作品にある種の魅力……文学作品として読むに絶えるもの……があることは、確かに言えるだろう。文学作品を読むことに、そのこと自体に、音楽を聴いているような時間の感覚でのぞむならば、この作品は豊饒な時間を与えてくれる。