『ボヴァリー夫人』フローベール(その二)2017-06-17

2017-06-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2016年6月16日
『ボヴァリー夫人』フローベール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598263

ギュスターヴ・フローベール.芳川泰久(訳).『ボヴァリー夫人』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/208502/

この文庫本の解説を読むと、翻訳に苦労したらしい。特に、原文に忠実に訳したとある。句読点まで、可能な限り原文通りにしたとも。

それから、特に意図して訳したのが、「自由間接話法」であるという。

その説明の箇所を少し解説から引用すると、

「語り手が視点だけを随意に移動させ、作中人物の至近にはりつける、と思ってもらえればこの話法が理解しやすくなるかもしれません。」(p.653)

またこうもある、

「これを移動しないと、語り手によるいわゆる「神の視点」からの描写になってしまいます。「神の視点」とは、たとえば壁があって見えないはずのところにいる作中人物でも、語り手にはすべて見えてしまっているように語る場合ですが、フローベールは、そうした描き方はしません。」(p.653)

「しかしフローベールは、語り手に属しながらそこから自由に移動できる視点を発明したのです。それを、自由間接話法の多用で成し遂げたのです。」(p.655)

「ここには、客観描写をめぐるコペルニクス的転回があるのです。」(p.658)

このような解説を読むと、作者(フローベール)は、『ボヴァリー夫人』において、ものすごいことを成し遂げたように思える。そして、この文庫本の解説は、これはこれとして興味深いものなのであるが……はたして、それが、実際の翻訳でどれだけ、日本語として、読者につたわるか、これは難しいものがあると感じる。

私は、この解説を最初に読んでから、そのつもりで、翻訳を読んだのであるが、はっきりいって、分からなかった。たぶん、この小説を何度も読んで、ストーリーを追うだけではなく、じっくりと文章を味読するような読み方をすれば、感じ取ることができるのかもしれない。

この意味で、もうちょっと時間をおいてから、再度、この小説を読み直してみたいと思っている。いま、ゾラの作品など読んでいる。19世紀フランスの自然主義文学の代表作を一通り読んで、また、ここに立ち返ってみることにしたい。

なお、ここで出てきた「自由間接話法」ということば、これは、『風と共に去りぬ』の解説にも、指摘されていたことである。新潮文庫版(鴻巣友季子訳)も、また、岩波文庫版(荒このみ訳)も、とも、「自由間接話法」に、解説で言及していたと記憶している。

さらに余計なことを考えてみれば、西欧の文学には、まず「神の視点」からの描写ということがあるのだろう。だから、そこに、ふと登場人物の視点を取り込む「自由間接話法」が、意味がある。逆に「神の視点」をもたない日本の物語文学、例えば『源氏物語』のような場合、女房の語りの視点のなかに、「神の視点」に移行するところがある、こんなふうに考えてみることもできるかもしれない。小説、物語の、語りの視点という意味では、「自由間接話法」ということについて知っておくことは、意味のあることであると思う次第である。