『日本の覚醒のために』内田樹2017-06-30

2017-06-30 當山日出夫(とうやまひでお)

内田樹.『日本の覚醒のために-内田樹講演集-』.晶文社.2017
http://www.shobunsha.co.jp/?p=4321

内田樹という人は、いつから「思想家」になったんだろうか。この人が、本を書き始めていたころ、今から10年以上も前のことになるが、そのころは、大学の教員であると同時に、評論家、あるいは、せいぜいフランス現代思想研究者であったように憶えている。それが、近年、マスコミなどの登場するときは「思想家」になってしまった。

まあ、どのような肩書で呼ぶかは、本人のあずかり知らぬところといってしまえばそれまでかもしれないが、はたして、本人はそれでいいのだろうか……余計な心配をしたくなってくる。

この内田樹、近年出た対談などは、はっきりいって読むにたえるものではない。まあ、居酒屋での与太話である。しかし、この本『日本の覚醒のために』は、いいと思って読んだ。

まだ、あまり有名でないころ、初期のエッセイでこんな意味のことを書いていたのを憶えている……なぜ、自分はひとと違う意見をもっているのか、自分と違う考え方のひとがいるのは何故なのか、その点について、自覚的であり自省しなければならない……このような意味のことが書いてあって、この点については、なるほどと思って読んだ記憶がある。

対談になると、相手と意見の一致を見るところだけで、勝手に話しがあらぬ方向にいって、ホラ話、与太話になってしまうことが多い。このあたりのことについては、すでにちょっとだけ書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月10日
内田樹・白井聡『属国民主主義論』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134271

それから、
内田樹.姜尚中.『世界「最終」戦争論 近代の終焉を超えて』(集英社新書).集英社.2016
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0836-a/

は、読むには読んでみたが、とても読後感など書く気になれなかったので、そのままにしてある。

しかし、こんど出た講演集はいい。講演ということだから、どちらかといえば、不特定多数の人を相手にしゃべることになる。どんな人が聞いているわからない。自分の意見に賛同してくれるひとばかりではないかもしれない。そのようなひとになんとかして、自分の考えていることを、とどけたい、説明したい、語りかけたい、という姿勢でのぞむことになる。そのような姿勢が、この講演集には、みられる。だから、全体として抑制のきいた論調になっている。(とはいっても、内田樹のことだから、かなり思いつきで言っているというようなところもあるのだが。)

「あとがき」で内田樹本人が書いていることだが、この本に収められた講演のなかでは、Ⅲの「伊丹十三と「戦後精神」」が、面白い。

私は、これまで、伊丹十三は、映画監督として見てきて、あまり、その著作を読むということがなかったのだが、これは、読んでおくべきかと思う。『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫版)など、買って読み始めたところである。

逆にあまり感心しなかったのが、Ⅵの「憲法と戦争-日本はどに向かうのか-」である。政治がらみの話で、いろいろと話題がとんでいるので、一貫して何を主張したいのか、今ひとつ、説得力をもってつたわらなかった。

ともあれ、この内田樹というひと……去年のブログで書いたように、基本的に保守的なひとであると思っている。その保守の思想が、いい意味であらわれているのが、伊丹十三を論じたあたりであるといえようか。

ヨーロッパの古くからの文化とそれを支える職人たちに、日本の伝統と共通する物を見いだして読み解いていくあたりは、「保守」の発想である。

気になったことを書いておけば、伊丹十三について論じながら、その父親である、伊丹万作については、まったくふれていない。伊丹万作の著作集だったか、出版されたのは、私の若い時、学生のころであったろうか。その時から、伊丹万作のことは気になっている。たぶん、伊丹万作のことについて触れなかったの、それなりの意図があってのことだと思って読んだ。

内田樹が、もし「思想家」であるとするならば、21世紀における「保守」の理念を語ったひととしてであるように思うのである。