『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)2017-07-01

2017-07-01 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年6月29日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/29/8606332

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

第4章を読みかけたところで、ふと付箋をつけた箇所について。この章は、近代の天皇制についての章なのだが、それにはいる前の前段階の議論で、ちょっと興味深い記述があった。

日本の近代を機能主義で説明しようとするとき、それに外れた人たちのことにもふれることになる。たとえば、

「森鴎外が一連の「史伝」で描いた江戸時代末期の学者たちの学問は、明治期の機能主義的な学問に対する反対命題でした。鴎外が「史伝」の著述にあたって、そのことを明確に意識していたことは明らかです。」(p.210)

つづけて、永井荷風におよぶ。1909(明治42)年の「新帰朝者日記」について、それを引用したあと、

「ヨーロッパには「近代」に還元されない本質的なものがあるという荷風の洞察は、後年文芸評論家中村光夫に深い感銘をあたえました。」(p.211)

ここを読んだとき、私の脳裏をよぎったのは、読んだばかりの、『日本の覚醒のために』(内田樹)である。

やまもも書斎記 2017年6月29日
『日本の覚醒のために』内田樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/30/8606943

この中の「伊丹十三と「戦後精神」」で、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に言及した箇所である。ここで、内田樹は、伊丹十三が、日本近代がとりこもうとしたヨーロッパにあって、その生活に密着したところにある職人たちの仕事にふれている。ヨーロッパの職人たちのわざこそ、日本の「伝統」とつながるものであると理解していると、私は読んだ。

たぶん、「近代」の日本というもののなかにあって、森鴎外、永井荷風、伊丹十三は、通底するものがあるにちがいない。さらには、内田樹にも。近代日本のモデルとなった西欧文化のなかに、機能主義的ではない文化的な伝統とでもいうべきものを見いだしている。

そして、さらに私見を書くならば、機能的ではない、人間の生活に根ざした文化的なものへの憧憬、これこそは、真性の「保守」の発想につながるものであろう。

伊丹十三をきちんと読んでおかなければならないと思っている次第である。また、荷風や鴎外も読み直してみたい。

追記 2017-07-06
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月6日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/06/8615164

『ひよっこ』あれこれ「ビートルズがやって来る」2017-07-03

2017-07-03 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第13週、「ビートルズがやって来る」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/13/

これまでは、土曜日まで見て、日曜日にアップロードしてきた。しかし、この週末は、所用で東京に行ってきたので、一日おくれて月曜の掲載になる。

私は、昭和30(1955)年の生まれなので、ビートルズ来日のときのことは、かすかに憶えている。その武道館公演のテレビ中継を見ていた記憶がある。だが、ビートルズをそんなに意識することはなかった。ビートルズを聴くようになったのは、大学に入って、東京で生活しはじめてからのことだったろうか。

みね子と同じで、テレビはなかった。ただ、ラジオだけがあった。ラジオだけが、自分と世界をつなぐ回路であったのかもしれない。無論、その一方で、大学での学生生活はあったのだが。

たぶん、大部分の日本の人びとにとって、ビートルズってなんだ?……という感じだった。だが、そのなかにあって、一部の熱狂的なファンという人たちもいた。

そのあたりの微妙な温度差というのを、この週ではうまく描いていたように感じた。おじさん(宗男)のビートルズへの熱い思い、それをどうにかしてあげたいと思う、みね子。結局、チケットは手に入らなかったようだ。

最後の土曜日で、みね子たちは、夜空に向かって叫んでいた。ロックが、その当時の若者の、鬱屈した心情をなにがしか反映しているものであるとするならば、その向かうさきは、世界に向かって、あるいは、空のかなたに向かって、心の内にある思いを、叫ぶことにあるのかもしれない。

このドラマ、慶應の学生は出てくるが、学生運動というものとは無縁であるように描いている。その当時の若者にとって、60安保、70年安保は、深刻な意味があったはずである。だが、このドラマはそれを描かない。そのかわり、当時の若者の心情を、ビートルズによせる思いを叫ぶことで、代えている見ている。

高度経済成長期にあって、安保闘争などの時代的背景を直接には描かないとしても、その当時の、若者の心情、こころのうちにあるものへの共感がこのドラマにはあると思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「誰がために城はある」2017-07-04

2017-07-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年7月2日、第26回「誰がために城はある」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story26/

前回は、
やまもも書斎記 2017年6月27日
『おんな城主直虎』あれこれ「材木を抱いて飛べ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/27/8605216

前回、ちょっとだけ出てきた「気賀の町衆」ということばが、この回では、大きな意味をもつようになってきた。

ただ、歴史的に見て、中世、戦国時代の地方都市である気賀のようなところに、「町衆」というべき人びとの暮らし、そして、生活の組織があったのかどうか、ということは、問題のあるところなのかもしれない。しかし、このドラマは、中世、戦国時代における、非農業民とでもいうべき人びとを、かなり積極的に描こうとしているようである。その意味では、気賀という町、そして、そこにすむ「町衆」といわれる人びと、これは、重要な意味をもってくる。

今川の支配下にありながら、銭を納めるということで、自治権を得ているという設定になっている。町衆にとって何よりも大事なのは、自治権である。自由に商売、交易ができる権利といってもよい。それを、今川は自己の勢力下におさめようとしている。

このあたりのことは、中世史の立場からそれなりの時代考証をしてのことだろうとは思ってみている。とにかく、百姓=定住=農耕=米作、といった図式から離れた人びとを、どのように描くかが、このドラマの面白さになっている。

そこで、最も「自由」に生きているのが、龍雲丸ということになるのであろう。「自由」な生き方をもとめている龍雲丸と対比することによって、今川の支配下において、武家としてしか生きられない、井伊のイエをせおっている直虎の生き方が、より鮮明なものになってくる。

ところで、今回は、ネコが出てきていた。あのネコは、和尚の飼っているネコではないのか……直虎と政次が囲碁をしているよこでおとなしくしていた。そして、和尚にも抱かれていた。同じネコなのだろうか。

次回はどうなるだろうか……直虎は今川に忠義をつくす立場をとらざるをえないことになるのだろうが、それは、あくまでも、井伊のイエを守るための選択肢としてにすぎない。結局は、徳川につくことになることを現代の我々は知っている。このあたりのプロセスで、今川の末路をどうえがくことになるのか、それに、井伊のイエはどのように対応していくことになるのか、このあたりが、これからの見どころかと思っている。

追記 2017-07-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/11/8618205

ギボウシ2017-07-05

2017-07-05 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真にする。今日は、ギボウシ。

ジャパンナレッジの「ギボウシ」の項目を見ると、たくさんの記載がある。日本国語大辞典を見てみると、ユリ科ギボウシ属の総称とある。細かには、さらに分類があるようだ。

「ぎぼうし」としての出典の最初は、『堤中納言物語』になる。平安時代から栽培、観賞されてきたことがわかる。

我が家に咲いているのはどれだろうか。

またその表記をみてみると、「擬法師」「擬宝珠」「擬法珠」「蒸露」「秋法師」など、様々な表記がある。

ところで、この花の名前、「ぎぼうしゅ(擬宝珠)」に由来するものかと思うとそうでもないようである。この意味での「ぎぼうし」の用例の古いものは、『太平記』にまで下る。

ともあれ、この花、そんなに目立つというわけではないが、我が家の庭のあちらこちらで、六月に咲いている花になる。もう我が家でのこの花の時期は終わってしまった。その傍らで、紫陽花がいま咲いている。

写した写真は、先月、おりに触れて撮ってみたもの。別に世話をして育てているいうわけでもないので、形がきれいにそろっていない。写真にしてみると、どうも不揃いである。

ギボウシ


ギボウシ


ギボウシ


ギボウシ


ギボウシ

Nikon D7500 AF-S NIKKOR 16-80

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その六)2017-07-06

2017-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月1日
『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/01/8607561

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

第4章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」

この章のポイントは次の二点になるだろう。立憲君主制のもとにおける天皇と、教育勅語における天皇である。

第一には、明治になってから、近代国家としての日本の統合のために、「基軸」となるものとして、天皇制が必要であったことの指摘である。これは、明治の近代国家の古さをしめすものではなく新しさをしめすものとしてである。

ヨーロッパの近代国家は、中世から「神」を継承してなりたっている。しかし、日本は、それをしなかった。いや、それをしようにも「神」が不在であった。また、仏教がそれにとってかわることもできなかった。廃仏毀釈のためである。その結果、

「ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」(p.216)

「日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。」(p.217)

近代における天皇には、二つの側面があったという。一つは、天皇機関説であり、もうひとつは神聖不可侵性である。この両者は両立し得ない。そして、この後者から導き出されたのが、教育勅語である、とする。

第二は、その教育勅語についてである。

「憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の基軸」に据えたことの論理必然的帰結でした。」(p.226)

その制定の経緯について解説して、

「道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、相対的超越者に移りました。」(p.237)

「こうして教育勅語は国務大臣の副署をもたないものとなり、それによって立憲君主制の原則によって拘束されない絶対的規範として定着するにいたったのです。」(p.240)

以上の二点のように、立憲君主としての天皇、それから、教育勅語の問題にふれて、さらにこうある。

「立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。」(p.241)

「相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇でした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」(civil religion)の要約であったといってよいでしょう。」(pp.241-242)

また、憲法は一般国民のあずかり知らぬものであっともある。大学教育前の段階で憲法教育はおこなわれなかったとして、

「大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。」(p.243)

その一例として、吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」も、多数の国民に広く影響のあったものではないと指摘する。(p244)

結果として、「日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。」(p.245)

そして、結論にはこのようにある……象徴天皇制の今後について、どのようにあるべきなのか、それは、天皇自らがどのように語りうることであるのか、また、それは、国民としてどうとらえるべきなのかが、課題であると(p.246)

つまり、この第4章から次のようなことが読み取れよう。

第一に、憲法(明治憲法)は、たしかに立憲君主制を規定したものであったが、それは、ある意味で、非常に近代的なものであった。

第二、大多数の国民にとって、日本のあるべきすがた「国体」をしめしていたのは教育勅語の方であった。

以上の二点を読み取るとするならば、例えば、昨今の話題になるようなことがら……憲法改正、それは、明治憲法の昔にもどすことであるのかもしれないという懸念、あるいは、教育勅語もいいところはあるのだから否定せずに現在でも継承すべきであるというような意見……これらの議論に、冷静な視点を提供してくれることなるだろう。

いたずらに明治憲法を悪の根源であるかのごとくみなすのもどうかと思えるし、一方で、教育勅語を復権させようという動きも、その成り立ちの本質を理解したうえでのことではないと批判することもできるだろう。

ともあれ、憲法と教育勅語をめぐる議論は、いまこそ冷静に考え直されなければならない論点であることは確かである。

『夏目漱石と西田幾多郎』小林敏明2017-07-07

2017-07-07 當山日出夫(とうやまひでお)

小林敏明.『夏目漱石と西田幾多郎-共鳴する明治の精神-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b287528.html

この本は、比較的おもしろく読んだ。

私が西田幾多郎を読んだのは、いつのころになるだろうか。たしか、高校生のころ『善の研究』を岩波文庫版で読んでみた経験はある。当然のことながら、さっぱりわからなかった。しかし、それでも、哲学というものへの畏敬の念はいまだにもっている。

漱石の方は、中学・高校の時から読んできている。その当時出た、岩波版の「全集」を買って読んだ。そのうちでも、『猫』は、もっとも多く読み返しただろうか。その後、数年おきぐらいには、その主な作品、特に『三四郎』以降の長編小説は、まとめて読み直すようにしてきている。

ところで、この『夏目漱石と西田幾多郎』である。ほぼ同じ時代に生まれた二人について、その評伝的記述を交錯させながら、そこに接点を見いだしていこうというようなこころみ、とでもみればいいだろうか。サブタイトル「共鳴する明治の精神」が、この本の内容をよく表している。

といって、二人の人生がそんなに深く交わっているということはない。しかし、同じ時代に生きた人間として、また、家庭環境に共通するようなところもあり、二人には共通するところもあるという。その弟子たちのとの関係をめぐっては、

「フロイトによれば、子供(息子)は父親という畏敬すべき「権威」を自分の中に取り入れることによって、無意識裡に自分を統御する「超自我」を形成するという。それが精神分析の考えるモラルの起源である。その意味で漱石や西田の弟子たちが自分たちの理想とした師が「父性」を帯びるのは不思議ではない。それは師の側にいえることで、彼らもまた知ってか知らずか「権威」としての「父」を演じるようになるのである。」(p.151)

このようなあたりが、二人の生き方において共通する要素とでもなろうか。

また、このような指摘もある。

「漱石と西田が追求した孤独な思索、一言でいってしまえば、それは内省である。ひとり自分の内面世界にとどまって、ひたすら自分の想念をめぐらす作業である。」(p.214)

このような観点にたって、漱石の、特に『それから』以降の心理小説を、内省の文学ととらえてある。さらに、

(藤村操にふれた後)「これは当時の明治の青年たちの間に広がっていたロマン主義の風潮のなせる業で、漱石も西田もこれと同じ空気を多分に呼吸していたということである。こういう目で漱石の内省的な作品を眺めてみると、いずれも男女間の愛がテーマになっていることに気づくだろう。」

この本は、漱石論としても、西田幾多郎論としても、たぶん、両方の観点から読んで、それなりに面白い着眼点があるにちがいない。私は、どちらかといえば、「文学」の側の人間になるので、漱石の作品論、評伝のようなものとして、読むことになったが。

次のような指摘は興味深かった。

(漱石の心理小説について)「正宗白鳥の辛辣な批判を受けたのだったが、それから一世紀を過ぎた今日、漱石の作品だけが残って、白鳥の批判がまったく忘れ去られたのはなぜか。これは白鳥の批評がまちがっていたということではない。そうではなく、時代が漱石の方に流れたということである。当時は白鳥の方にリアリティがあったであろう。しかし、今は圧倒的に漱石の方にリアリティが移っているということだ。」(pp.203-204)

「われわれ今日の読者が、たとえば『こころ』を読んでも、言語的にはほとんど違和感がない。しかし、そのことをもって、漱石も現代語を書くことができたと考えるのは倒錯である。なぜなら、漱石たちこそが、そのような「新しい日本語」を創り出した当人なのだから。」(p.226)

『こころ』は、今の日本の中学生、高校生でも読める。それは、その延長線上に、現代の日本語、日本文学があるということでもある。この意味では、今後も、漱石の作品は、読み継がれていくことになるであろう。

『西行花伝』辻邦生2017-07-08

2017-07-08 當山日出夫(とうやまひでお)

辻邦生.『西行花伝』(新潮文庫).新潮社.1999(2011.改版)(新潮社.1995)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106810/

再読である。そして、久しぶりの辻邦生である。

辻邦生の作品は、若い頃によく読んだ。『廻廊にて』『嵯峨野明月記』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。その芸術至上主義とでもいうべきものに、ふかくこころひかれていたときがあった。そのような気持ちは、今でものこっている。

つぎのような箇所、

「なぜそれはそこにあるのか。なぜそれはそれであって、他のものではないのか。」(p.630)

「たとえば鳥が空をとんでゆく。それは日々気にもとめず見る平凡な風景である。だが、なぜ〈その〉鳥が〈その〉とき〈そこ〉を飛んだのか、と考えはじめると、平凡な風景が突然平凡ではなくなり、何か神秘的な因縁に結びついた現象(あらわれ)に見えてくる。」(pp.630-631) 〈 〉内、原文傍点。

このような箇所、まさに初期の『廻廊にて』に出てきてもおかしくはない。いや、まさに、『廻廊にて』から、一直線に『西行花伝』に続いているといってもよい。

とはいえ、この作品『西行花伝』を、このように読む気になってきたというのも、ある意味、私自身が年をとってきたせいもあるのかと思う。もうちょっと若いころであれば、国語学、日本語学というような分野に身をおいていると、この作品が、そう素直に読むことができない。どうしても、日本文学史上の西行という歌人を、そこに読みとろうとしてしまう。また、保元の乱などの時代的背景の描き方に目が行ってしまう。

しかし、もうこの年になってみると、そのような、些末な時代考証的なことは、どうでもよくなる。といって、まったく気にならないということではない。知識としては知っていることが、この作品でどう書かれているか、そうこだわることがなくなってくる。(無論、文学史的、歴史学的に正確なものであってほしいという気持ちがあってのことなのだが。)

それよりも、むしろ、著者(辻邦生)が、この『西行花伝』で、「西行」に仮託して述べている、その芸術観、世界観、人生観のようなものに、こころひかれるようになってきた。そして、それは、まだ若いころに、『廻廊にて』などに親しんだときの気持ちを、思い返すことでもある。

ところで、この作品、西行の生いたちから、その死までを描いているのだが、圧巻は、やはりなんといっても、保元の乱から、崇徳院の配流、そして、その怨霊、といったあたりだろうか。保元の乱について、一応のいきさつは知ってはいるものの、その後の崇徳院の讃岐配流、そして、怨念……これを、鬼気迫る迫力で描き出したこの作品は、一級の歴史小説でもある。

この『西行花伝』を読んで、昔読んだ『廻廊にて』などできれば読み返してみたい気がしている。それから、この作品の最後の方で、慈円が登場する。『愚管抄』も、きちんと読んでおきたいと思う。(とりあえず、どんな作品であるか、若い時にざっと目をとおしたことはあるのだが。)

ともあれ、西行研究、西行の評伝、というような視点を超えて、この作品はある。そして、そのような視点で読むことのできるような境遇に、ようやく、今の私はあるということでもある。

追記 2017-07-10
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年7月10日
『西行花伝』辻邦生(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/10/8617672

『ひよっこ』あれこれ「俺は笑って生きてっとう!」2017-07-09

2017-07-09 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第14週、「俺は笑って生きてっとう!」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/14/

この週のみどころは、なんといってもおじさん(宗男)の存在だろう。

ビートルズが日本にやってきた。その東京公演にあわせて、上京してくる。しかし、チケットが手にはいったというわけではない。ビートルズが日本にいる間、同じ東京にいたい、ただそのためだけにやってきた。

なぜ、ビートルズなのか。宗男の過去、戦争の体験が語られるシーンが一番印象的であった。太平洋戦争・大東亜戦争において、インパール作戦に参加したという。つまり、英国を相手にたたかった。もちろん、インパール作戦は、無謀な作戦であり、散々な敗北で終わることになる。

その経験があるからこそ、英国から、ビートルズが出現したとき、いてもたってもいられない気持ちになったのだろう。

そして、その宗男の気持ちを、周囲の人びとも、それぞれの立場で理解しているようである。同じ、戦争の体験をもつシェフはもちろんのこと、戦争中の暮らしの経験して鈴子もそうである。また、その妻(滋子)も、ビートルズに熱狂する夫への、理解をしめしている。

1960年代、昭和40年ごろである。まだ、戦争の体験が、人びとの記憶にあり、その生活のなかにも残っていた時代である。

ちなみに、私は、1955(昭和30)年の生まれであるが……例えば、軍歌「戦友」は、テレビで憶えた。戦争を描いたドラマが、たくさん作られていた時代でもあった。

そして、金曜日に、ふと現れて消えていった、失踪したはずの父親(実)。どのような事情があったかは、今後あきらかになるのだろうが、ともあれ、無事に生きて東京にいるということは確認できた。たぶん、父親との再開、失踪の謎の解明、これは、ドラマの最後になるのだろうとは、予測するが。

土曜日に、すずふり亭での、向島電機・乙女寮の同窓会。このようなシーンを入れてくるのが、岡田惠和脚本の良さなのであろうと思う。

最後に登場した女優(菅野美穂)、これから、このドラマで重要な役割をはたすらしい。期待して見ることにしよう。

『西行花伝』辻邦生(その二)2017-07-10

2017-07-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

辻邦生.『西行花伝』(新潮文庫).新潮社.1999(2011.改版)(新潮社.1995)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106810/

読みながら付箋をつけた箇所をすこし引用しておきたい。

「でも、ひとりで虚空に立つ人に対して、その一切を変成し、虚空が暖かな香わしい親愛の庭となり、そこに全身を軽々と豊かに横たえられるとしたら、まさにそのような変成こそが歌によって行われなければならなかったのでございます。」(p.142)

「西住よ。私はようやく紀ノ川のほとりで眺めた浮島のようなこの世を、迷いなく、ひしと心に抱くことができる。この世はもともとただそれだけのものにすぎぬ。味もなければ、芸もないのだ。それが浮島とみえ、虚空のはかなさに包まれると見えたとき、好きものに満ちていることが解るのだ。運命の興亡も、季節のめぐりも、花鳥風月の現れも、何か激しく心を物狂おしくする好きものなのだ。私は、ただそれを物狂おしいまでに好くために、こうし草庵のなかに坐しているのである。」(p.264)

このような虚無……虚空……のなかに毅然として、自分のたつよりどころを見いだす。それを、芸術のうちに、美のなかに、見いだす。このような発想、一種の芸術至上主義といってもいいのかもしれないが、しかし、えてしてニヒリズムのなかに逃げ込んでしまいそうな、現代の我々の世の中にあって、このように、きっぱりと言い切る芸術、美への信頼は、いっそのことすがすがしくある。

辻邦生という作家は、これからも読まれていく作家にちがいないだろうが、それは、上述のような、芸術、美への確信的な信頼を吐露したところにおいてであろうと思う。

芸術至上主義と言ってみたが、決して耽美的ではない。豊かな感性を背後にもちながらも、どこか理性的な判断がそこにはある。知的な芸術至上主義……耽美的なに対して……といってよいかもしれない。

さて、このような辻邦生の作品で、今、新潮文庫で読めるのは『安土往還記』がある。これも読んでみたい。若いときに何度か読み返した本である。

『おんな城主直虎』あれこれ「気賀を我が手に」2017-07-11

2017-07-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年7月9日、第27回「気賀を我が手に」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story27/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年7月4日
『おんな城主直虎』あれこれ「誰がために城はある」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/04/8611928

以前のこのブログで、「気賀の町衆」ということばがはじめて出てきたとき、そのことに注目しておいた。また、このドラマは、「自由」が一つのテーマではないか、ということについても言ってみた。そのことが、より鮮明になったのが、前回から今回への展開であろうか。

もちろん、中世、戦国時代に「自由」というようなことばがあることはないだろう。近代的な意味における「自由」の成立は、日本の歴史の上では、どう考えて見ても明治以降のことになるちがいない。

しかし、このドラマを見ていると、「自由」を描こうとしているように見える。その「自由」を体現しているのは、龍雲丸である。近代的な市民ではない。あくまでも、中世、戦国時代の人物である。そのような人間にとって、領主の支配下にある武士でもない、また、領地に定住する農耕民でもない。主に商業を軸になりわいをたてている。(とはいえ、龍雲丸は、もとはといえば、盗賊であるのだが。)このような龍雲丸にとってのエトスは、「自由」ということになるのではなかろうか。

また、この回では、方久が重要な役割をはたしていた。彼もまた武士の出身ではない。商人である。それが、井伊のイエにつかえて、イエをまもるために大きな働きをする。

現代風の言い方をすれば、井伊のイエを、ビジネスで生き延びさせる、これが、方久の、また、龍雲丸の役割どころ、といったところであろうか。

気賀の町が井伊のものになって、ドラマは、後半にはいっていくことになるのだろう。今川と武田の縁がきれた。まわりには、北条、徳川、織田といった戦国大名たちがひしめいている。そのなかで、井伊という土地の安寧を願ってそこに生活している、直虎たちの運命はどうなるのであろうか。(まあ、その最終的な結果について、現代の我々は知っていることになるのだが。)

ところで、今回も、和尚とネコがでてきていた。特に、どのような役があったということもないようであるが、あの和尚とネコがいるかぎり、井伊は安泰であるという印象になる。和尚にはネコがよく似合う。

追記 2017-07-18
この続きは、
やまもも書斎記 2017年7月18日
『おんな城主直虎』あれこれ「死の帳面」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/18/8622787