『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その六) ― 2017-07-06
2017-07-06 當山日出夫(とうやまひでお)
つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月1日
『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/01/8607561
三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html
第4章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」
この章のポイントは次の二点になるだろう。立憲君主制のもとにおける天皇と、教育勅語における天皇である。
第一には、明治になってから、近代国家としての日本の統合のために、「基軸」となるものとして、天皇制が必要であったことの指摘である。これは、明治の近代国家の古さをしめすものではなく新しさをしめすものとしてである。
ヨーロッパの近代国家は、中世から「神」を継承してなりたっている。しかし、日本は、それをしなかった。いや、それをしようにも「神」が不在であった。また、仏教がそれにとってかわることもできなかった。廃仏毀釈のためである。その結果、
「ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」(p.216)
「日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。」(p.217)
近代における天皇には、二つの側面があったという。一つは、天皇機関説であり、もうひとつは神聖不可侵性である。この両者は両立し得ない。そして、この後者から導き出されたのが、教育勅語である、とする。
第二は、その教育勅語についてである。
「憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の基軸」に据えたことの論理必然的帰結でした。」(p.226)
その制定の経緯について解説して、
「道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、相対的超越者に移りました。」(p.237)
「こうして教育勅語は国務大臣の副署をもたないものとなり、それによって立憲君主制の原則によって拘束されない絶対的規範として定着するにいたったのです。」(p.240)
以上の二点のように、立憲君主としての天皇、それから、教育勅語の問題にふれて、さらにこうある。
「立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。」(p.241)
「相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇でした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」(civil religion)の要約であったといってよいでしょう。」(pp.241-242)
また、憲法は一般国民のあずかり知らぬものであっともある。大学教育前の段階で憲法教育はおこなわれなかったとして、
「大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。」(p.243)
その一例として、吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」も、多数の国民に広く影響のあったものではないと指摘する。(p244)
結果として、「日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。」(p.245)
そして、結論にはこのようにある……象徴天皇制の今後について、どのようにあるべきなのか、それは、天皇自らがどのように語りうることであるのか、また、それは、国民としてどうとらえるべきなのかが、課題であると(p.246)
つまり、この第4章から次のようなことが読み取れよう。
第一に、憲法(明治憲法)は、たしかに立憲君主制を規定したものであったが、それは、ある意味で、非常に近代的なものであった。
第二、大多数の国民にとって、日本のあるべきすがた「国体」をしめしていたのは教育勅語の方であった。
以上の二点を読み取るとするならば、例えば、昨今の話題になるようなことがら……憲法改正、それは、明治憲法の昔にもどすことであるのかもしれないという懸念、あるいは、教育勅語もいいところはあるのだから否定せずに現在でも継承すべきであるというような意見……これらの議論に、冷静な視点を提供してくれることなるだろう。
いたずらに明治憲法を悪の根源であるかのごとくみなすのもどうかと思えるし、一方で、教育勅語を復権させようという動きも、その成り立ちの本質を理解したうえでのことではないと批判することもできるだろう。
ともあれ、憲法と教育勅語をめぐる議論は、いまこそ冷静に考え直されなければならない論点であることは確かである。
つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月1日
『日本の近代とは何であったのか』三谷太一郎(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/01/8607561
三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html
第4章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」
この章のポイントは次の二点になるだろう。立憲君主制のもとにおける天皇と、教育勅語における天皇である。
第一には、明治になってから、近代国家としての日本の統合のために、「基軸」となるものとして、天皇制が必要であったことの指摘である。これは、明治の近代国家の古さをしめすものではなく新しさをしめすものとしてである。
ヨーロッパの近代国家は、中世から「神」を継承してなりたっている。しかし、日本は、それをしなかった。いや、それをしようにも「神」が不在であった。また、仏教がそれにとってかわることもできなかった。廃仏毀釈のためである。その結果、
「ヨーロッパ的近代国家が前提としたものを他に求めざるをえません。それが神格化された天皇でした。」(p.216)
「日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。」(p.217)
近代における天皇には、二つの側面があったという。一つは、天皇機関説であり、もうひとつは神聖不可侵性である。この両者は両立し得ない。そして、この後者から導き出されたのが、教育勅語である、とする。
第二は、その教育勅語についてである。
「憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。「教育勅語」は、伊藤が天皇を単なる立憲君主に止めず、半宗教的絶対者の役割を果たすべき「国家の基軸」に据えたことの論理必然的帰結でした。」(p.226)
その制定の経緯について解説して、
「道徳の本源は中村案における「神」や「天」のような絶対的超越者ではなく、皇祖皇宗、すなわち現実の君主の祖先であるという意味では相対的な、しかし非地上的存在という意味では超越的な、相対的超越者に移りました。」(p.237)
「こうして教育勅語は国務大臣の副署をもたないものとなり、それによって立憲君主制の原則によって拘束されない絶対的規範として定着するにいたったのです。」(p.240)
以上の二点のように、立憲君主としての天皇、それから、教育勅語の問題にふれて、さらにこうある。
「立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。」(p.241)
「相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもったのは憲法ではなく教育勅語であり、立憲君主としての天皇ではなく、道徳の立法者としての天皇でした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」(civil religion)の要約であったといってよいでしょう。」(pp.241-242)
また、憲法は一般国民のあずかり知らぬものであっともある。大学教育前の段階で憲法教育はおこなわれなかったとして、
「大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。」(p.243)
その一例として、吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」も、多数の国民に広く影響のあったものではないと指摘する。(p244)
結果として、「日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。」(p.245)
そして、結論にはこのようにある……象徴天皇制の今後について、どのようにあるべきなのか、それは、天皇自らがどのように語りうることであるのか、また、それは、国民としてどうとらえるべきなのかが、課題であると(p.246)
つまり、この第4章から次のようなことが読み取れよう。
第一に、憲法(明治憲法)は、たしかに立憲君主制を規定したものであったが、それは、ある意味で、非常に近代的なものであった。
第二、大多数の国民にとって、日本のあるべきすがた「国体」をしめしていたのは教育勅語の方であった。
以上の二点を読み取るとするならば、例えば、昨今の話題になるようなことがら……憲法改正、それは、明治憲法の昔にもどすことであるのかもしれないという懸念、あるいは、教育勅語もいいところはあるのだから否定せずに現在でも継承すべきであるというような意見……これらの議論に、冷静な視点を提供してくれることなるだろう。
いたずらに明治憲法を悪の根源であるかのごとくみなすのもどうかと思えるし、一方で、教育勅語を復権させようという動きも、その成り立ちの本質を理解したうえでのことではないと批判することもできるだろう。
ともあれ、憲法と教育勅語をめぐる議論は、いまこそ冷静に考え直されなければならない論点であることは確かである。
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