『安土往還記』辻邦生2017-07-21

2017-07-21 當山日出夫(とうやまひでお)

辻邦生.『安土往還記』(新潮文庫).新潮社.1972(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106801/

いま、新潮文庫で読める辻邦生の作品というと、『西行花伝』のほかには、この『安土往還記』だけのようである。『西行花伝』については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

やまもも書斎記 2017年7月10日
『西行花伝』辻邦生(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/10/8617672

この『安土往還記』もよく読み返した作品のひとつである。高校生のころであったろうか。(大学生になってからは、あまり読まなかったような気がする。キリシタン史の講義……高瀬弘一郎先生……には、三年ほど出たと憶えている。歴史学の方面から、キリシタンへのアプローチを知ってからは、遠ざかってしまってしまった。)

『西行花伝』を読んだので、この作品も読んでみたくなって手にしてみた。

読みながら付箋をつけた箇所。

「しかし大殿(シニョーレ)の場合、彼が執着するのは現世ではなく、この世における道理なのだ。常に理にかなうようにと、自分を自由に保っているとでもいえようか。」(p.75)

「私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極致に達しようとする意思(ヴォロンタ)である。」(p.104)

「少なくとも私には、彼がただ一人で寡黙に支えつづけているものの〈重さ〉がわかるのである。そしてもし人間に何か生きるに価することがあるとして、それが人間に与えられているとすれば、それは、こうした〈重さ〉を自分の〈重さ〉と感じることではないのか。」(pp.142-143) 〈 〉傍点

「おれの求めるのは、人間の極みに達する意思なのだ。完璧さへの意思なのだ」(p.151)

このようなことばで表現される、人間としての完璧さを目指す強靱な意志としての「信長」……このような信長のイメージは、やはりこの小説独自のものだろう。

ところで、私の織田信長へのイメージが何に由来するかと考えてみると……特に、日本史、中世史を専門としているわけではないので、どうしても小説などに描かれたイメージということになるのだが……この作品の他には『国盗り物語』(司馬遼太郎)によっている。ともに読んだのは、高校生のころだった。

その他、テレビのドラマ、NHKの大河ドラマなどでは、何度となく、織田信長がが描かれているのを見てきている。これらのないまぜになった形で、私の「信長」のイメージは形成されている。そのなかにあって、『安土往還記』に描かれた「信長」のイメージは、屹立している。

戦国武将ではない、むしろ、芸術家にちかいような人物として描かれている。強靱な意志をもった人物造形。この「信長」のイメージから、私は、自由になることができないでいる。このことは、歴史学研究の分野で戦国時代などを専門にしているというわけではないので、ある意味で、自由に想像の領域で考えることができる。これはこれとして、悪いことではないと思う。ただ、そのことに自覚的でありさえすれば、であるが。

『西行花伝』を読んで、現実の西行を思い浮かべるのではなく、あくまでもこの作品に描かれた「西行」を考えてみなければならないのと同様、歴史的にどうであるかということとは切り離して「信長」を見ることになる。

いや、ここで、再度『安土往還記』を読み返してみて、それだけの余裕を持って、この作品を読むことができた、といった方がよいかもしれない。

『西行花伝』『安土往還記』と読んでみたが(ともに、再読)、ここはやはり『廻廊にて』を読んでおきたくなっている。おそらく辻邦生の作品が後世に残るとすれば、何よりも『廻廊にて』ではないだろうかと思っている。