『無用者の系譜』唐木順三(その三)2017-07-29

2017-07-29 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年7月28日
『無用者の系譜』唐木順三(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/28/8628812

唐木順三.『詩とデカダンス 無用者の系譜』(中公選書).中央公論新社.2013(1959.筑摩書房)
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/07/110015.html

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておく。

「我々の世代はもう漢詩を存分には読めなくなっている。近代文学の濫觴を逍遙の『小説神髄』や二葉亭の『浮雲』に求める近代においては、髻を結んだ漢詩人などはもう問題の外におかれている。しかし、江戸中期以来の文人気質をその本来の姿で伝えているのは反ってこの逸民たちであったろう。伊藤整のいう文壇における逃亡者、実生活、実社会からの逸脱者たち、即ち自然主義以来の私小説家たちも、沈山系の逸民が明治においてなお生存しつづけていなかったならば、現れえなかったであろう。」(pp.355-356)

「この二人(=花袋、秋声)ばかりでなく自然主義者は皆雅号で通っている。(中略)さらに遡れば東洋の文人気質に通ずるものが自然主義者にまで及んでいるといってよい。(中略)明治以来の「文壇」には、なお文人気質が残っていたといってよい。」(pp.480-481)

「我々の通常の文学史は、旧幕時代の文人と近代作家との断絶を説くのが普通であるが、案外に旧きものと新しきものは、たちきられてはいない。誇張していえば、明治の文学、少なくとも『白樺』出現以前の文学史を支えていたものは、反って文人資質であり、無用者意識であったとも考えられもしよう。」(p.494)

このような観点……つまり、近世期の文人と、近代文学者たち(『白樺』以前)を連続するものとしてとらえるキーワードとして、「無用者」を考えてみる視点……これは、今となっては、逆に、新鮮に思える。このこと、文学とは無用者のなすことであるという感覚は、今でもなお、わずかではあるが生き残っていると私は感じる。(一方その逆に、文学がいかに社会にとって有用であるかという観点も現代ではあるともいえるが。)

ともあれ、自らを「無用者」と規定する意識は、近代における文学……広義の文学……文学、歴史、哲学、宗教、芸術、など……に、まだ残っているだろう。この意味においては、大学の文学部で学ぶことが役にたつかどうか、というような問題設定自体が、無意味なものということもできよう。

だが、そうはいっても、現代の、これからの大学の文学部での勉強、学問が、いったい何の役にたつか……これはこれとして、またあらためて考えてみたいことではある。

なお、唐木順三の『無用者の系譜』を読んで……同時に並行して読んでいたのは、井筒俊彦であったりもするのだが……『意識と本質』『意味の深みへ』『コスモスとアンチコスモス』など……そして、昔、読んだ本で、読み返したくなったのが、『頼山陽とその時代』(中村真一郎)。これについては、また別に。

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