『おんな城主直虎』あれこれ「潰されざる者」2017-08-01

2017-08-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年7月30日、第30回「潰されざる者」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story30/

前回は、
やまもも書斎記 2017年7月25日
『おんな城主直虎』あれこれ「女たちの挽歌」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/25/8627025

ひさしぶりにネコが登場していた。あのネコは、直虎の家で飼っているネコなのであろうか。

今回もまた、直虎がいったい何のために生きて行動しているのか、そのエトスというものが、描かれていたように思う。それは……繰り返しになるが……井伊のイエを守るためである。今川への忠誠心は、無い。

たしかに今川の支配下にある。だが、その今川を、直虎は裏切ろうとしている。徳川につく算段である。しかし、では、徳川への忠誠心があるのかというと、そうでもない。戦国乱世の世の中、井伊のイエのいきのこりをかけて、どこと結ぶのがもっとも妥当であるかという、戦略的な生き残り策である。

興味深いのは、方久の生き方。自らを銭の犬と言っている。ビジネス至上主義といってもよい。では、その方久は、今川につくのか、それとも、井伊とともにあるのか、いまのところはっきりしないようである。だが、すくなくとも、井伊のイエの一族であるという忠誠心は、どうやら無いと思える。

銭の犬、方久が、これからどう動くか。この方久が、直虎が井伊のイエを守っていくなかで、重要な役割をはたすことになるのだろうと思う。

その一方で、政次の行動の原理は何だろう。今川への忠誠心でもないようであるし、また、井伊への忠誠心でもない。直虎(おとわ)に対する、愛慕の念かとも思えるが、はて、次回以降、どのようになるであろうか。

歴史の結果として、井伊は、徳川の配下になることを、現代の我々は知っている。それにいたる過程を、どのようにこれから描くことになるのであろうか。そのなかで、虎松(直政)は、いったいどのような生き方を選ぶことになるのか。このあたりが、このドラマの後半のみどころではないだろうかと思っている。

井伊をつぶそうと今川がたくらんでいるのは、そこが、三河(徳川)と戦になったときの要衝の地であるからである。直轄にしたいとねらっている。このような状況のなかで、井伊谷という土地へのパトリオティズムはどうなるのであろうか。

井伊のイエの生き残りこそが重用なのであって、井伊谷という領地へのパトリオティズムは、出てこないのだろうか。そういえば、最近では、井伊谷の領地の描写が無いように思える。このあたり、戦国時代の国衆の、領地についてのパトリオティズムとでもいうべきものを、このドラマは描く、あるいは、逆に描かないことになるのだろうか、このあたりも、注目して見ていきたいところである。

さて、次回もネコは登場するであろうか。

追記 2017-08-08
この続きは、
やまもも書斎記 2017年8月8日
『おんな城主直虎』あれこれ「虎松の首」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/08/8642285

ツユクサ2017-08-02

2017-08-02 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので、花の写真。今日は、ツユクサである。以前にくらべると少なくなったようだが、それでも我が家のまわりで目にすることができる。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見ると、初出例は、『宇津保物語』、それから、『枕草子』にもある。平安時代から、「つゆくさ」の語はあったことがわかる。

『枕草子』の用例は、

「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの、いちご。つゆくさ。水ふぶき」

とある。実際に見てみるとどうということはないが、文字で書くとたいそうなものに感じるということらしい。しかし、現代の我々の感性からすれば、ツユクサは、「つゆくさ」「露草」の語形がいちばんしっくりくる。栽培して愛でるというものではないかもしれないが、道ばたに咲いていると、ふと目がとまる花である。

季語としては、秋とのことだが、私の感覚としては、夏を代表する草花の一つである。

ツユクサ

ツユクサ


ツユクサ

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『ナナ』ゾラ2017-08-03

2017-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

ゾラ.川口篤・古賀照一(訳).『ナナ』(新潮文庫).2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/211604/

今、刊行されている新潮文庫版は、改版して新しくしたものだと思うが、元の版がいつになるのかわからない。巻末の訳者あとがきは、1959年になっている。

『居酒屋』につづいて読んでみた。主人公のナナは、『居酒屋』の主人公・ジェルヴェーズの娘ということになる。『居酒屋』でも、すこし登場するが、この『ナナ』は、完全に独立している。

新潮社のHPには、「文豪が描いた究極の悪女!」とあるが……どうも、私が読んだ印象としては、そんな感じはあまりしない。たしかに、まわりに群がってくる男たちを、次々と手玉にとっていくので、たしかに「悪女」にはちがいないだろうが。

そして、読後感としては、今ひとつ、登場人物たちに感情移入できないで終わってしまったというところであろうか。19世紀のフランス、上流社会の中で男たちの間をわたりあるく高級娼婦……このような存在に、また、それに惹かれてよってくるような男たちに、今日の観点から、感情移入して読めというのが、そもそも無理なことではあるにちがいない。

現在、ゾラの作品で新潮文庫で読めるのは、この『ナナ』と『居酒屋』である。私としては、断然『居酒屋』の方をおしておきたい。これは、今日の観点で読んでも、その物語に引きずりこまれるところがある。無論、歴史的・社会的背景は異なる。だが、『居酒屋』を読むと、現代社会の大きな問題である貧困ということになぞらえて、19世紀パリの下層社会を読むことになる。

このような読み方は、おそらく作者(ゾラ)は意図してはいなかったことであろう。時代としては、『ジェルミナール』のように、社会主義、共産主義の未来を語ることのできた時代である。そのような時代ではもはやない。ソ連、東欧社会主義国の崩壊後、社会主義への夢はついえたといってもいいだろう。

だが、それにかわって登場してきたのが、グローバルに展開する社会的格差、貧困の問題である。このような社会状況のなかで、ゾラの作品が今後も読まれていくとすると、『居酒屋』ということになると私は思う。

『ナナ』であるが……パリの高級娼婦というような存在、これを描くのに、作者は、かなり苦労しているという感じがする。文庫版のあとがきを読むと、やはり、これを書くために作者は、かなり取材ということをしたとのこと。

ゾラのリアリズムの筆が、十分におよんでいないという印象をうける。人物造形に、そして、ストーリーの運びに、ちょっと無理があるかなと思ってしまう。とはいえ、最後の方、ヒロインのナナが自滅していくあたりの描写は、作品のなかにのめりこんでいくような感覚になる。

この『ナナ』は、ルーゴン・マッカール叢書というシリーズの中の一つとして、このような境遇の女性を主人公に小説を書いてみた、ということで理解することになるのだろう。19世紀フランスの自然主義文学の一つとして読まれるべき作品である。
追記 2017-08-04

この続きは、
やまもも書斎記 2017年8月3日
『ナナ』ゾラ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/04/8639608

『ナナ』ゾラ(その二)2017-08-04

2017-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年8月3日
『ナナ』ゾラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/03/8638804

ゾラ.川口篤・古賀照一(訳).『ナナ』(新潮文庫).2006
http://www.shinchosha.co.jp/book/211604/

ナナという女性の「職業」はいったい何なんだろう……これもよくわからないところである。舞台にたつ人気女優でもある。また、男たちを手玉にとって渡り歩く、高級娼婦でもある。この二つの側面があって、作品では、ごっちゃになって語られる。このあたりが、この作品をわかりにくくしているところでもあるし、また、同時に、ナナという女性の魅力でもある。

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておく。

「しかし、小鳥のような脳味噌では、復讐心など長続きはしなかった。怒っている時以外に彼女の心を占めているのは、常に活発な浪費欲と、金を出してくれる男に対する生まれながらの軽蔑と、情夫の金を湯水のように使って破産させることを誇りとする、飽くなき搾取家の絶え間ない気紛れだった。」(p.463)

実に奔放な女性として描かれている。美貌ではあるが、さして賢いようではないようだ。(この点、『居酒屋』に登場する時のナナは、家族を思う気持ちをもった女性として描かれていたように思う。)

小説は主に、舞台、劇場でのナナと、男たちを相手にしている時のナナ、この二つの場面で構成されている。そして、このどちらもが、21世紀の日本で読んで、そう深く感情移入できるということはないように読めた。(これは、私の読み方の浅いせいかもしれないが。)

私が読んで、興味深かったのは、むしろ舞台、劇場の場面である。風俗史的な興味もあるが、その当時(19世紀のフランス)の舞台の人びとの様相が活写されていると思って読んだ。

一つの小説として独立した作品として決着をつけておかなければならないので、そのような結末になっているのだろうと、推測してみる。あるいは、最後にナナは自滅せずに、そのまま奔放な生活をつづけていくという終わり方もあったのかもしれないのだが。

ゾラの作品、他につづけて読んでみることにする。

『ジェルミナール』ゾラ2017-08-05

2017-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

ゾラ.河内清(訳).『ジェルミナール』.「世界の文学」23.中央公論社.1964

ゾラの作品を読んでおこうと思って探してみると、昔の中央公論社の「世界の文学」にはいっていることがわかった。ネットで古本で買った。かなり安かった。もう、このような「世界の文学」というようなシリーズ自体が、価値がなくなっているのかもしれない。

読んで思ったことは……これは、日本でいえば、まさに「プロレタリア文学」である、ということ。それから、「世界の文学」のシリーズの中にゾラは、この一巻だけであるが、それをまるごとつかって、『ジェルミナール』を収録してある、これは、やはりその時代を感じさせる編集だな、ということ。

フランスの地方の炭坑が舞台。そこではたらく炭鉱労働者の生活。この描写は、『居酒屋』を書いたゾラならではのものだと感じさせる。下層の労働者階級の描写である。それをリアリズムの手法で、綿密に描いてある。

そこでおこるストライキ、その鎮圧、それから、炭坑での落盤事故(事件)、そして、その事故からの救出劇。

これが書かれた時代は、社会主義の正義が唱えられていた時代である。また、翻訳された時代……中央公論「世界の文学」の時代……マルキシズムは、正義であった。

だが、もはや、ベルリンの壁の崩壊を経て、社会主義国は崩壊してしまっている。マルキシズムを正義とイコールで考える時代ではないだろう。そのような時代の変化を感じる。

もちろん、この作品自身、ゾラの書いたものだけあって、炭鉱労働者の生活やストの様子、落盤事故への対応など、綿密に描いてあるし、ドマラチックなもりあがりもある。これはこれとして、十分に読めるものである。

しかし、この作品が基底にもっているところの社会主義の正義とでもいうべきものは、すでにこの世界から消えてしまっている。今の21世紀の時代になってから読んでみると、このような作品を文学として読んでいた時代があったのだな、ということに、その時代の変遷、時の移り変わりに、感慨を感じる。

そして、ゾラは、『居酒屋』『ナナ』につらなるものとして、このような作品も書いていたのか、と認識を新たにする。この作品にみられるような社会正義の感覚のもとに、かのドレフェス事件のことがあったのかとも、思ってみたりもする。

たぶん、この作品は、今後、忘れ去られていくことだろうと思う。だが、それは、時代の流れである。とはいえ、このような作品を文学として読んでいた時代があったということは、まだ、私の世代の感覚としては、共有することができるうちにいる。たとえ、それが、今では通用しない社会主義の正義というべきものであったとしても。

『ひよっこ』あれこれ「大丈夫、きっと」2017-08-06

2017-08-06 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第18週、「大丈夫、きっと」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/18/

失踪していた父親(実)がみつかった。そのできごとをめぐっての一週間だった。

今週の見どころは、なんといっても、マンションでの場面、女優、川本世津子と、父親(実)、母親・妻(美代子)、そしてみね子、が顔を合わせるシーンだろう。それぞれに、失踪した父(実)に対しての思いがある。それぞれの思いが、錯綜し対立する。緊迫した場面が、きわめて印象的であった。

このドラマは、悪い人、悪人、敵役、が出てこないといわれている。それは、必ずしも欠点ではないと私は思っている。

第一に、地方から出てきて、東京で働いている「普通」の女の子(みね子)を描こうとするとき、そんなに悪い人がでてくるはずもないだろう。いい人ばかりではないかもしれないが、逆に、世の中、悪い人が必ずいるともかぎらない。

第二に、むしろ、この方が重要かと思うのだが……みね子は、「普通」に生活していながら、父の失踪、数奇なめぐりあわせ、そして、記憶喪失という事態に直面することになる。このうえない不条理を背負うことになる。この不条理に直面する主人公のまわりに悪い人はいない方がいいだろう。

主に、このように考えて、私は、このドラマに悪い人は必要ではないと思っている。

おそらく、これからの物語は、記憶を喪った父親(実)が、「家族」を再構築していくプロセスが描かれることになる。あるいは、さらには、記憶がもどるということもありうるかもしれない。その時、どれほどの、精神的衝撃があるのかわからない。想像するだけだが、失っていた記憶がもどるというのは、本人にとっても、また、周囲の人びとにとっても、きわめて重大な出来事になるにちがいない。その重大なできごとを受けとめる用意が、まわりの人びとになければならない。

だから、この意味において、このドラマでは、いい人ばかりが登場することになっているのだと思う。この方向で考えるならば、この先まちかまえている、父親の記憶の回復は、どんなふうに描かれることになるのだろうかと考えてしまう。

すずふり亭の人たちも、あかね荘の人たちも、みんないい人ばかりである。次週は、奥茨城が舞台になるようだが、その故郷の人たちも、きっといい人ばかりにちがいない。もう出てこないかもしれないが、父親(実)と生活していた女優、川本世津子も、いい人である。悪意があって、隠していたわけではない。

いい人ばかり、ということは、それだけ、これからのドラマの次の展開……記憶の回復……のショックが大きなものがあるということにつながると予想する。その大きな衝撃をうけとめるための準備段階が、いまの時点における、もどってきた父親(実)をめぐる人びとの反応であろう。

この先の展開が楽しみなような、また、ちょっと恐ろしいような気がしないでもない。

『日本人の心の歴史』唐木順三2017-08-07

2017-08-07 當山日出夫(とうやまひでお)

唐木順三.『日本人の心の歴史』上・下(ちくま学芸文庫).筑摩書房.1993(初版 筑摩書房.1970 底本 筑摩書房.1976)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080530/
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080547/

筑摩書房のHPを見ると、上巻の方は品切れのようである。下巻の方はまだ在庫があるようだ。そのせいか、この作品、中央公論新社が出した、中公選書の「唐木順三ライブラリー」のシリーズにははいっていない。これは、中公から出してもよかったのではないだろうか。それほどに、唐木順三のエッセンスがつまった作品である。

読んだのは高校生のときだったかと憶えている。

特に上巻のはじめの方で指摘してある、『万葉集』の「見れど飽かぬ」についての指摘は、その後、大学で国文学を勉強するようになって、『万葉集』など読むようになってからも、ずっと心の底にのこりつづけてきたような気がする。

しかし、専門に国文学を勉強するようになってから、唐木順三からは、むしろ遠のいてしまった。厳密な訓詁注釈をふまえているというわけでもないし、また、私が学んだ折口信夫につらなる民俗学的な発想で書かれているわけでもない。

そして、そのまま年月がすぎてしまって……ようやくこのごろになって、昔読んだ本を再読してみたくなって、文庫本をとりだしてきた次第である。唐木順三は「全集」も持っているのだが……これは、学生の時に刊行になったかと憶えている、買って持っている……新しい、中公の本とか、筑摩の文庫本で読んでいる。

読み返してみて、もはや高校生のころに読んだような敏感な感受性のもとに読むことは出来なくなっていることを痛感する。しかし、それでも、唐木順三が、日本文学や、宗教を通じて、日本人の季節感、人生観の歴史にせまろうとしたあとをたどってみると、今でもなお共感するものがある。

その語っていることに全面的に賛同というわけではない。今の私の観点からは、かなり批判的に読むところもないではない。

『万葉集』と『古今和歌集』を、そう簡単に比較できるものではない。

その歌の制作時期が長期にわたり、まだ文字を持たない日本語の時代に詠まれた歌が後に文字になり編集されたものと、平安王朝貴族の時代になってから、文字(仮名)に書かれたものを編集して作成したもの、これの比較は、そう簡単ではない。しかし、そのような批判の視点をもっては見るものの、『万葉集』の「見る」から、『古今和歌集』の「ながむ」への流れの指摘は、そのような歌の読み方もできると感じるところがある。

いや、逆に、今の私は余計な知識を身につけすぎてしまっているので、素直に文学作品としての『万葉集』『古今和歌集』を読めなくなってしまっているとも、思ったりもする。ここは、初心にかえるとでもいおうか、素直にテキストにむきあって、文学として歌を味わうということがあってよい。

日本語史の資料として見るのではなく、純朴に素直な読者として読むことは難しい。そのような読み方が正しいかどうかは別のこととして、『万葉集』や『古今和歌集』が古典文学として、現代にまで読み継がれてきているということは、唐木順三のような仕事があってのことであろう。

国文学研究などの本筋からは、ちょっと離れたところに存在した唐木順三という人、強いて分類すれば、評論家になるのかもしれないが、このような人の仕事が、今、とても貴重なものに思える。

私自身の文学、特に日本文学の古典についての感性の多くは、唐木順三を高校生ぐらいのときに読むことによって醸成されたものであると今になって思う。(その後に大学生になってから読んだ折口信夫などのこともあるのだが。)この夏休みは、唐木順三を読んでみたい。

『おんな城主直虎』あれこれ「虎松の首」2017-08-08

2017-08-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年8月6日、第31回「虎松の首」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story31/

前回は、
やまもも書斎記 2017年8月1日
『おんな城主直虎』あれこれ「潰されざる者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/01/8636993

今回は、ネコが登場していなかったが、しかし、ネコがおとなしくしてないているような場面のある展開でもなかった。

結局、今は子供の虎松が、将来、直政になることはわかっている。それは、NHKの番組HPの登場人物のところにそう出ている。だから、虎松が無事であるということは、あらかじめ分かっていることである。とはいえ、虎松の運命をめぐって、急激な展開であった。

やはり気になるのは、井伊というイエと、井伊谷という土地へのパトリオティズム。ドラマは、このところ、井伊谷の村の人びとの生活の様子を描かなくなっている。どうやら、井伊谷という土地へのパトリオティズムは、消えているかのようである。

それにかわってあるのが、井伊というイエ。井伊の一族であり、組織である。ある人びとの集団といってもいいだろうか。その井伊のイエをどうまもりぬくかが、今の直虎にとっての、そして、また、政次にとっての最大の課題である。

そのためには、井伊谷の土地から離れてしまうことも、あえて辞さない。大事なのは、井伊のイエである。

今川の支配下にあるといっても、今川に忠誠心があるわけではない。これは、徳川についても同様だろう。少なくとも、直虎の段階では、井伊のイエの生き残り戦略として、徳川と手を組むということを選んだ。たぶん、これが、次の世代、直政(虎松)の時代になると変わってくるのかもしれない。徳川のもとにある井伊という存在を描くことになるのかと予測するが、どうだろうか。

戦国時代の、家臣団はどのような関係でその人間が結びついていたのだろうか。このあたりが興味のあるところである。井伊谷を追われた直虎たちにとっては、家臣に与える土地も俸禄もない。では、その井伊のイエの家臣団の結びつきは、何を基本にしているのだろうか。井伊のイエの一族であるという意識だけなのであろうか。

このあたりの戦国武将、国衆の、家臣団のまとまりとなるエトスをどのように描くか、気になってみている、すくなくとも、このドラマでは、中核となる井伊のイエの一族の結びつきを、きわめて強固なものとして描いている。

さて、その滅亡寸前においこまれた井伊のイエが次回は、再起するらしい。どのような展開になるか楽しみに見ることにしよう。
追記 2017-08-15

この続きは、
やまもも書斎記 2017年8月15日
『おんな城主直虎』あれこれ「復活の火」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/15/8646867

マキ2017-08-09

2017-08-09 當山日出夫(とうやまひでお)

ブログに花の写真を掲載するようになって、庭にある木をいろいろと観察するようになった。これまで気付かなかったことに気付く。その一つが、マキである。

庭木としていくつかある。それが実や花をつけることを、このたびはじめて知った。毎年、夏になると植木屋さんに剪定してもらう。その後、どうなるか見ていたら、実であろうか、白い丸いものが目についた。すべての木にあるというわけではない。実をつけない木もある。

それから、さらに観察してみると、花のようなものをつけている木があることに気付いた。たぶん、花なのだろうと思う。手元にある、簡便な図鑑で確認してみると、どうやらマキ(イヌマキ)の木の花のようである。

ところで、マキという木、庭木として植えてあるのは、イヌマキだと思うのだが、「まき」で日本国語大辞典(ジャパンナッジ)を検索してみると、「まき」の、いぬまき、こうやまき、の用例はかなり古くからあるようだ。

載っている最古例は、日本書紀になる。その次が、鎌倉時代になって、名語記である。はたして、現在の普通の庭でみる植木のマキと同じ植物なのかどうかは、詳しく検証の必要があるだろう。だが、「まき」という名で呼ばれる樹木が、古くは上代からあったらしい。

我が家のマキの木が、これからどうなるか観察していくつもりでいる。

マキ


マキ

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『ひよっこ』における方言(その四)2017-08-10

2017-08-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月24日
『ひよっこ』における方言(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/24/8626384

行方不明になっていた父親(実)が見つかった。そのことの経緯をめぐっては、ドラマはとても興味深い展開であった。が、それはおいておいて、このドラマにおける、方言の問題をさらに考えておきたい。

見つかった父親(実)は、記憶喪失である、という設定。私自身、記憶喪失ということについては、まったく知らない。だから思うことなのかもしれないが、記憶喪失になって、人は、方言を忘れるものなのだろうか。

みね子と再会したときの父親(実)は、方言を話していなかった。共通語であった。どうやら、自分の母方言も忘れてしまっている、という設定かなと思ってみていた。

ところが、みね子と一緒に、田んぼの田植えをするために奥茨城に帰ってくると、父親(実)は、その方言で話していた。方言で話すというよりも、自然と話しことばのなかににじみ出るような感じであった。

これは、たぶん、そのように演出効果をねらって脚本が書いてあるのだろうと思う。故郷に帰った父親(実)は、自分の方言を忘れてはいない、ということなのだろう。

そして、おそらく、このこと……自分の母方言を忘れてはいない……が、今後の、記憶の回復へむかうところの、伏線になっているのだと思う。もし、まったく記憶が回復しないままでおわるような展開になるなら、ずっと共通語を話すままでいくだろう。記憶が回復して、突然、方言で話し出すというのは、ありえない展開であると考える。

たぶん、父親(実)の記憶は回復する、私は、このように推測してみるのだが、どうだろうか。

追記 2017-09-01
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月1日
『ひよっこ』における方言(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663644