『文章読本』中村真一郎2017-08-25

2017-08-25 當山日出夫(とうやまひでお)

中村真一郎.『文章読本』(新潮文庫).新潮社.1982 (世界文化社.1975 文庫化にあたり加筆あり)

もう今では売っていない。古本で買った。『文章読本』は、他にも多く出ている。もちろん、一番有名なのは、谷崎潤一郎のものである。その他、川端康成、三島由紀夫、井上ひさし、丸谷才一、などのものがある。たいてい読んできたつもりでいたが、中村真一郎のものは未読であった。

中村真一郎の本で、最近出たのが

中村真一郎.『頼山陽とその時代』(上下)(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2017

である。(これについては、あらためて書いてみたと思っている。)ともあれ、中村真一郎を久しぶりに読んでみて、昔買って読んだ本など、再度読み直したくなった。そこで、まず、手軽なところからろ思って『文章読本』を選んでみた。

この『文章読本』も、他の「文章読本」と同じように、主に文学の文章を、それも主に小説の文章をあつかっている。文学の、小説の、文章読本である。

だが、中村真一郎『文章読本』は、それにとどまらない。近代文学史になっている。近代の主に小説の文章をとりあつかって、その歴史、発展をたどっている。それが、ちょうど明治以降の近代文学史になるように書かれている。

谷崎潤一郎の『文章読本』については、すでに触れた。

やまもも書斎記 2016年8月23日
谷崎潤一郎『文章読本』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/23/8160014

ここで、私は、谷崎『文章読本』には、あまり高い評価をくだしていない。文学作品の鑑賞という観点からは参考になるところはある。しかし、文章を書く、また、文章の歴史を考えてみる、という観点からは、谷崎のものはほとんど役にたたない。

しかし、中村真一郎の『文章読本』は、文章を歴史的に見る視点をもっている。近代になって、口語文というものが成立してくるプロセス、それから、その可能性について、ひろく考察をめぐらせている。

たとえば、冒頭近くの「文語文と口語文」の箇所から少し引用してみる。

「文章は通常、論理と感情の両面を表現するものである、つまり〈書く〉ということは、人の〈考える〉ことと〈感じる〉こととを同時に言葉にすることである、と私は先に述べました。/そして、明治維新以後、〈話し言葉〉のなかから文章を作ろう、つまり〈口語文〉を作ろうと云う運動が起って来たとき、それに最も熱心だったのは作家でした。/と云うのは、ほとんど純粋に論理だけを操縦してつくる論文、布告文、と云うようなものは、従来の漢文を読み下したような〈文語体〉でも不自由がなかったのです。」(p.23)〈 〉原文傍点

近代の日本語文の成立史の研究の観点からは、いろいろいうべきことはあるであろうが、文学の文章としての口語文という意味では、ここに述べられていることで、大筋としては、ほぼ十分なのではないだろうか。

日本語史の視点からの文章史はもちろんあってよい。だが、それと同時に、文学の観点から、口語文の歴史を振り返ることもあっていいだろう。この意味において、中村真一郎の『文章読本』は、意義ある仕事だと思う。(この本は、是非、復刊してほしいと思う。)
追記 2017-08-26

この続きは、
やまもも書斎記 207年8月26日
『文章読本』中村真一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/26/8657880