『ひよっこ』における方言(その五)2017-09-01

2017-09-01 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年8月10日
『ひよっこ』における方言(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/10/8643666

今週、第22週、「ツイッギーを探せ!」、のなかばで、興味深いところがあった。

島谷の再登場である。すずふり亭のコック、ヒデは、休暇をつかって佐賀に行ってきた。そして、島谷にあった。その話しの内容は別におくとしても、気になったのは、場所が佐賀であるという設定であるにもかかわらず、あいかわらず、島谷は佐賀方言を話していなかった。

社会的階層……この場合は、島谷は、会社の経営者の立場になる……からして、どの地方にいようとも、共通語で話しができると理解しておくべきだろうか。あるいは、東京からやってきたヒデとは、東京方言で話すということなのだろうか。

佐賀の出身で、東京の大学(慶應)で勉強して、故郷に帰って会社をついでいる。このような場合、佐賀方言で話してもいいのかもしれないが、そうはなっていなかった。

このドラマとしては、佐賀という土地に特にこだわることはないのだろう。地方の名家でありさえすればよい。その御曹司がたまたま東京で生活していて、みね子と出会ったとすべきであろう。

古くは、漱石の『三四郎』が、九州、福岡出身で、熊本の高等学校(旧制)を出た、主人公、小川三四郎に、九州の方言を一切つかわせていない。これは、ただ、地方出身の若者を、東京で生活させれば、それで成り立つという小説だからである。

これと同じように、島谷の場合も、佐賀出身であるということに、特に意味があるわけではない。ただ、地方の名家の出でありさえすればよかった。そのような立場としては、むしろ、方言は話さない方が、特定の地域に限定しない方が、ドラマとしては都合がいい。

一方、みね子の方は、東京に出てきてからかなりの年月が経ているにもかかわらず、あいかわらず奥茨城方言で話している。すずふり亭の鈴子も、みね子と会話するとき、ちょっとだけ、奥茨城方言を交えて、談笑していた。「いがったねえ」と言っていた。ここでは、みね子の方言が、特に隠すべきものでもなく、堂々と使われている。

このまま、みね子は、東京で生活するとしても、奥茨城方言のままであるのかもしれない。これは、地方出身の女性が、東京で一人で生活しているという設定にとって、このドラマとしては、むしろ不可欠な要素なのである。

この時代、社会としては、方言コンプレックスのようなものがあったことについては、すでに触れた。

また、富山出身の漫画家(志望)の二人の青年も、富山方言で話している。これも、ある意味で不自然であるが、売れない漫画家という設定のためには、不可欠な要素であるようにも思える。

父親(実)は、記憶がもどるかどうかはさておくとしても、故郷の奥茨城で生活することに決めたようである。谷田部の家の人びとは、その根ざすところは、奥茨城の生活にある。この意味でも、奥茨城方言は、みね子と故郷、そして、父親(実)を、共通に支えるものとして、不可欠な要素であるといえよう。

実際に昭和40年代の東京を生きた、地方出身の人間がどうであったか……という考証の観点は別にして、このドラマでは、みね子の出身地の方言を、きわめて肯定的に描いていることは確かである。

『文章読本』中村真一郎(その四)2017-09-02

2017-09-02 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年8月31日
『文章読本』中村真一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/31/8662778

さらに付箋をつけた箇所を引用しておきたい。永井荷風にふれて次のように書いてある。

「こうした口語文への疑いというものは、荷風がいかに深い文体感覚の所有者であったかを示しているわけです。英語やフランス語の〈文学的〉文体、また漢文に比べて、明治以降に発達した新しい口語文は、いかにも未熟なもの、古典的完成に遠いものと感じられたでしょう。/文体というものは、その文体を使う人の、知性と感性との全体的な反映です。そうして荷風は西洋から帰って来てから半世紀近くのあいだ、ずっと近代日本の蕪雑な文明に我慢がならず、〈完成された〉江戸末期の生活を真似てみたり、また〈完成された〉西洋風の生活を試みたりして過ごしました。それは日常の必需品の端ばしに至るまでに、徹底したものでした。」(p.143) 〈 〉原文傍点

今の私は、荷風を読むよりも、荷風について書かれたものを読むことの方が多い。このことについては、すでにこのブログでも触れたことである。

ともあれ、荷風が近代の口語文を嫌ったことは確かなことのようである。それは、荷風の「作品」であるところの『断腸亭日乗』を見てもわかる。これを、荷風は、文語文で書いている。

荷風のようになることは、もはやできない。現に、この本、『文章読本』を書いている中村真一郎自身が、この本自体を、近代の口語文で書いているのである。現代においては、近代の口語文以外に、文章の選択肢はないといってよい。

そのなかにあって、その可能性を様々に探る文学的なこころみもあっていいだろう。と同時に、日本語の文章史において、我々の知性、感性が、近代の口語文とともにあるのだということに、自覚的である必要がある。

荷風の時代には、まだ、漢詩文や、江戸の文学などが、同時代のものとしてあった。また、鴎外や鏡花のような日本語文の可能性も残されていた。だが、現代の日本語においては、もはやそのような選択肢はない。

であるならば、このような時代の流れのなかにあることを自覚したうえで、口語文による、知性と感性の表現を追求していかなければならない。

現代の口語文によるすぐれた知性と感性の事例として、私は、例えば井筒俊彦の文章があると思っている。この夏の間にその著作……主に、イランの革命からのがれて日本に帰ってからのもの……のいくつかを読み返してみた。すぐれた知性によるすぐれた日本語の文章であると私は思う。現代日本語の口語文の可能性は充分にのこされていると思う次第である。

『ひよっこ』あれこれ「ツイッギーを探せ!」2017-09-03

2017-09-03 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第22週「ツイッギーを探せ!」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/22/

この週も群像劇であった。ヒロインはみね子のはずだが、みね子をめぐっては物語は進展しなかった。

まず、出てきたのは時子。ツイッギーのコンテストに出るという。そして、米屋のさおり。三男をめぐってのやりとり。次に由香。ヒデと島谷。そして、週の最後は、富さんだった。早苗さんにも、何か秘密があるらしい。ただ、漫画家(志望)の二人の青年は、あいかわらずであったが。

群像劇であるとはいっても、基本はみね子からの視点で描かれている。まあ、すずふり亭とあかね荘が舞台であるから、みね子がそこにいるのは、当然といえば当然である。

このみね子の視点からはずれない、というところが、このドラマの基調となっていることに注目しておきたい。群像劇として、いろんな登場人物のできごとをおいかけながらも、必ずそれがみね子に関係するところで起こっている。みね子をはなれたところで、物語が進行することはない。例外的に、ヒデと島谷の面会のシーンはあったが、これもみね子と関係することである。

そして、みね子は、ごく普通にすずふり亭ではたらく、地方(奥茨城)出身の若い女性として描かれている。このごく普通の立場から見て、ということが重用なのだと思う。

週の最後の富さんの若い時の恋物語も、単なる老人の回想ではなく、若い人(みね子をふくむあかね荘の人たち)に語って聞かせるということになっていた。富さんの悲恋の物語は、若いみね子にどのような印象をあたえたのであろうか。

そういえば、みね子の島谷の恋愛について、富さんは悲観的な見方をしていた。それは自らの経験があってのことだったのか、とこの時点になって納得がいく。

次週は、また世津子さんが登場するようだ。そして、このドラマも最後の大団円にむかっていくことになる。楽しみに見ることにしよう。

『鳩の撃退法』佐藤正午2017-09-04

2017-09-04 當山日出夫(とうやまひでお)

佐藤正午.『鳩の撃退法』(上下).小学館.2014
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386388
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386389

佐藤正午は、今回(第157回)の直木賞である。その受賞作の前に書いた小説である。受賞作『月の満ち欠け』については、また別に書くことにして、今日はこちらの小説について、いささか。

本の帯を見ると「第6回山田風太郎賞」とある。なるほど、山田風太郎の名を冠する賞に値するか……その期待は裏切られない。まさに、「語り」、メタレベルのフィクションでなりたっている小説である。

読み始めは、実に素直である。ごく普通の小説のようにはじまる。だが、それが、途中でいきなり視点が転換する。はて、この「小説」の主人公は誰なのか、あるいは、書き手は誰なのか……謎につきおとされる。そして、小説を読み進めていくにしたがって、その謎はより混迷をふかめる。今まで自分が読んできたのは、ほんとうのことなのだろうか、それともフィクションなのだろうか、(まあ、「小説」なのだから全体としてフィクションであるにはちがいないのだが)、そして今自分が読んでいるのは、「語り」のどのレベルのことなのか、このような混乱したなかにおいこまれる。だが、混乱するというよりは、この作者の「語り」のうまさにのせられて、いつどのように終わってもおかしくない「小説」の最後までつきあうことになる。

おそらくは、現代の小説におけるフィクションとは何か、というようなことを考えるとするならば、最重要な作品になるにちがいない。ただ、この作品の真似は、もうできないだろうな、と感じさせるところもある。それだけ、発想がずば抜けている。

このような作品を書いた作者が、直木賞をとるのは、なるほどとうなづける。直木賞のニュースを知ってから買って読んでみた。これは買って読んで損はない小説である。

『おんな城主直虎』あれこれ「蘇えりし者たち」2017-09-05

2017-09-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年9月3日、第35週「蘇えりし者たち」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story35/

前回は、
やまもも書斎記 2017年8月29日
『おんな城主直虎』あれこれ「隠し港の龍雲丸」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/29/8661531

井伊のイエは、これからどうなるのだろう、という展開になりそうである。

これまで、直虎のエトスとしては、井伊というイエ、一族、組織を、守っていくことにあった。そのように思わせるドラマであった。だが、今回、それがくずれそうである。直虎は、何のために戦うのか。

もはや井伊谷の郷土をまもるためではないようだ。井伊谷へのパトリオティズムは、どこにも出てきていない。

いや、ここで、直虎は、戦うこと自体に疑問をいだきはじめている。何のために戦うのか、そのむなしさのようなものを感じさせている。全体に厭戦気分がただよっていた。

戦国時代ドラマで重用なのは、何のために戦っているのか、その理由付けであると思っている。前作『真田丸』であれば、その根底にあるのは、真田のイエの、豊臣に対する忠誠心であった。また、豊臣と徳川との覇権争いもあった。

ところが『おんな城主直虎』の徳川はまだ天下を狙うというところにはいない。(将来は、そのような立場になることは分かっているのだが。)天下を狙うどころか、戦いがいやになったようでもある。

といって、平和主義というのでもない。戦国の世にあっては、戦わなければ生きのびていけない。その理由を見いだせなくなったとき、イエの存続はない。今後、井伊のイエはどうなるのか。直虎の判断がどうなるか、気になる。

ところで、方久が、出家して薬商人になってしまった。このドラマの面白さの一つとして、方久、それから、龍雲丸という、武士ではない、といって農民でもない、非農業民、自由の民、を登場させたことにあると思って見てきた。それが、龍雲丸は、仲間を殺され、また浪々の身になってしまったようであるし、方久は、井伊の配下から脱して、薬商人となってしまった。まあ、それで、銭がもうかるならば、まさに方久らしい生き方ではあるのだろうが。

武士ではない、また、農民でもない人びとを、どのように描くか気になっていたのだが、このあたり今後どうなるのか注目していきたい。

そして、今回は、ネコが登場していた。自分のはいるカゴにじゃれついていた。井伊のイエがどうなるか気になるが、ネコもどうなるか気になる。ネコがおとなしく、かわいがってもらえるような世の中が、泰平の世の中なのだろうと思うのである。

追記 2017-09-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月12日
『おんな城主直虎』あれこれ「井伊最後の日」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/12/8675259

マンリョウの実2017-09-06

2017-09-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。だが、今日は花ではなく実である。

庭のマンリョウの木を観察している。花がおわって、実をつけているところである。まだ、青い。見て回ると、かなりの木が実をつけている。これが、秋から冬になると、色がかわっていく、赤くなるはずである。その過程を、これから順次見ていきたいと思っている。

普通、マンリョウの木の写真というと、寒くなった時期に赤い色の実をつけたものである。これから見ていって、どのように変化していくか、追っていくことにしたい。

マンリョウ

マンリョウ

マンリョウ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8G ED

『月の満ち欠け』佐藤正午2017-09-07

2017-09-07 當山日出夫(とうやまひでお)

佐藤正午.『月の満ち欠け』.岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283991.html

2017年、第157回の直木賞作品である。かなり話題になった本であるので、特に私として付け加えていうほどのこともないだろうが、思うことをいささか。

輪廻転生の物語である。輪廻転生の物語といえば、誰でも思いつくのが、三島由紀夫の『豊饒の海』(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)である。これらの作品については、すでにこのブログで書いた。三島の書いた輪廻転生の物語は、その途中で破綻している。

それに対して、『月の満ち欠け』は完結した物語になっている。小説として破綻していることはない。さすが、佐藤正午が書いただけの作品ではあると思う。

佐藤正午は、小説をメタレベルで語る視点を獲得している。このことについては、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年9月4日
『鳩の撃退法』佐藤正午
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/04/8669619

きちっとまとまった輪廻転生の物語になっている。強いて比較して言うならば、『豊饒の海』が輪廻転生という事実があるとして、それをそのまま受け入れる、あるいは、受け入れない、という視点で書かれているのに対して。『月の満ち欠け』は輪廻転生という事実を、なんとか理性的に受けとめようとしている。私は、そのように感じる。

この『月の満ち欠け』について、私なりに思うところを記せば、次の二点になるだろうか。

第一は、語りの視点の交錯である。

たぶん、このような印象は、『鳩の撃退法』を読んでいるか、いないか、によって幾分変わってくるかもしれない。『鳩の撃退法』のようなメタレベルの視点の作品を書きうる作家の書いたものとして読むとき、輪廻転生という事実の描き方、あるいは、その解釈の仕方も、変わってくる。より強く、そのようなこともあり得る世界のことを描いた小説なのである……このように意識することになる。

そして、これは『鳩の撃退法』とも共通することなのだが、その語り口のうまさ、語りの視点の転換のうまさが、特筆すべきものとしてある。この『月の満ち欠け』では、視点人物が、入れ替わり、交錯する。その交錯と、輪廻転生ということとが、うまくミックスして叙述されている。

『月の満ち欠け』のうまさは、ただ輪廻転生の物語を描いたことにあるのではない。それを、次々と関連する人物の立場を入れ替えながら交錯させながら描いた、語り口のうまさにあると、私は感じる。

小説とは所詮虚構である。が、その虚構を、どのような視点から描いてみせるのか、これはその作家によって異なる。この意味においては、佐藤正午は、小説は虚構であるということを、きわめて強く意識している。語られていることが、その時々の視点人物によりそっている。それを、別の視点人物から見れば、また別の描き方になる。これらの視点の錯綜するなかに、虚構としての輪廻転生というできごとが浮かび上がる。このような仕組みになっている。

第二には、「老い」の視点を作中に設定できていることである。

佐藤正午は、私と同じ年のうまれである。だから、というのでもないだろうが、「老い」の視点が、この小説にはある、と感じる。そして、このこと……「老い」の視点を設定していることが、重要になると思って読んだ。

『豊饒の海』がなぜ破綻した小説になったか、いろいろ考えることはできるが、その一つとして「老い」の視点を、描ききれなかったことにあると私は思う。三島は、45歳で、この小説を書き終えて、市ヶ谷にむかったのであった。三島は、「若さ」を描くことは出来た。しかし、「老い」を描くことには失敗していると、私は『豊饒の海』を読む。

以上の二点が、『月の満ち欠け』について、私の思ったことである。

もう最近では、直木賞だからといって、特にどうとも思わなくなっている私ではあるが、この作品についていえば、直木賞にふさわしい作品であると考える次第である。

『この世の春』宮部みゆき2017-09-08

2017-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)

宮部みゆき.『この世の春』(上・下).新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/375013/
http://www.shinchosha.co.jp/book/375014/

宮部みゆきの本は、なるべく買って読むことにしている。特に好きであるということもないのだが、宮部みゆきは、今の「時代」を描いている作家であると思っているので。

この『この世の春』は、宮部みゆきの作家生活30周年の作品とのこと。新潮社も、気合いをいれて宣伝しているようである。

とはいえ、結論から書いてしまえば……この作品は、私は、あまり好きにはなれなかった。よくもわるくも、宮部みゆきの時代小説を代表するものとなっている。

強いてそのマイナス的な評価を書いていみるならば……読んでいって、作品がどの方向にむかっていくか、わからなくなる。だんだん脇道にそれていくかと思えば、それが本筋のように思えてきたりもする。最終的には、最後のところで、それまでの叙述がうまく回収されて、めでたく終わりになるのであるが。

この作品、読み始めて、まず、シャーマニズムの話しかと思う。と思って読んでいくと、多重人格、あるいは、憑依現象をあつかった作品のようになる。さらに読んでいくと、子供の連続誘拐事件が発覚する。いったいこの小説は、どちらの方向にむかってくのか、読んでいてふと不安になってしまう。

だが、最終的には、タイトル『この世の春』に示されるように、大団円で終わる。これは、これでいいのだろう。宮部みゆきのこのような小説作法が好きな人にとっては、傑作と読めるにちがいない。

しかし、以前の『幻色江戸ごよみ』のような、語り口のうまさで読ませるというべき作品を憶えていると、近年の時代小説は、何か物足りない。このごろのものとしては、私は、三島屋シリーズの方が好きなのであるが。

一方で、現代を舞台にしたミステリとしては、すぐれた作品を書いている。最近のものでは、『希望荘』があった。

ともあれ、『この世の春』という本は、上下二巻になる。じっくりと宮部作品、特にその時代小説の世界にひたって楽しむには、充分である。

雪見障子2017-09-09

2017-09-09 當山日出夫(とうやまひでお)

宮部みゆきの時代小説を読んでいて……こんど出た『この世の春』、それから三島屋シリーズなど……気になっていることばがある。雪見障子である。

私の理解するところでは、雪見障子というのは、障子の下半分が、ガラスになっていているものである。あるいは、それに、上げ下げして、全面を障子にしたり、あるいは、ガラスで透けて見えるようにしたり、調整できる可動式の小さな障子がついている。

部屋の中にいながら、ガラスを通して、雪見ができる、という意味だと理解していた。

ただ、ジャパンナレッジを検索してみても、「雪見障子」についての解説は見いだせない。Googleで検索してみると、上述のような、現代の建具としての雪見障子が出てくる。

つまり、宮部みゆきの描いている江戸時代には、まだ雪見障子はないのではないか、と思うのだが、どうだろうか。家の中の建具に、ガラスが一般的に使われるようになるのは、どう考えてみても明治より新しいだろう。

でなければ、江戸時代にも、その時代の雪見障子があったのかもしれないが、わからない。気になっていることばである。雪見障子ということばは、風雅なことばであるから、江戸時代にあってもよさそうな気もしている。しかし、その場合でも、現代のようなガラスのはまったものではないであろう。

『ひよっこ』あれこれ「乙女たちに花束を」2017-09-10

2017-09-10 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第23週、「乙女たちに花束を」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/23/

この週を見ての印象は、このドラマは「教養小説」だな、ということであった。

もちろん、ヒロインはみね子であるが、みね子が何かことをなしとげるということはない。ただ、「普通」の地方出身で東京に出てきて働いている女の子が成長していくものがたりである。主人公の成長を描く物語を、「教養小説」というのならば、まさにこのドラマが該当する。

金曜日の放送で、早苗が言っていた。みね子は変わったと(別に、よくなったと言っていないあたりが、早苗らしかったが)。そして、川本世津子をあかね荘にひきとることになったみね子自身も言っていた。「なしにしないといけない」と。

父(実)の失踪、発見、記憶喪失、そして、世津子のもとから、家族のところへ。さらに、奥茨城へ。みね子としても、このなかでいろいろと考えることがあったのだろう。その上、さらに、世津子を救出して、自分のところに引き取ることにする。

これらの出来事について、なしにしないといけない、と。

これは、みね子の成長を物語るものなのである。少なくとも変化とはいえる。このドラマは、ごく「普通」の女の子の成長を描いている。これが、「教養小説」でなくて何なのであろうか。

その成長の過程で、みね子視点の群像劇が展開される。今週は、大家さん(富さん)の悲恋。また、由香と家族との和解。これらの出来事が、みね子を視点人物として描かれていた。

このドラマが、これまでの朝ドラと違うところは、「教養小説」というキーワードで語れるかどうかだと思って見ている。「教養小説」をキーワードにしてみると、過去の朝ドラであれば、「あまちゃん」がそれに該当するかもしれない(このドラマにも、有村架純は出ていたのだが。)

次週、物語は、最後に向かって進んでいくようだ。楽しみに見ることにしよう。