『文章読本』中村真一郎(その四)2017-09-02

2017-09-02 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年8月31日
『文章読本』中村真一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/31/8662778

さらに付箋をつけた箇所を引用しておきたい。永井荷風にふれて次のように書いてある。

「こうした口語文への疑いというものは、荷風がいかに深い文体感覚の所有者であったかを示しているわけです。英語やフランス語の〈文学的〉文体、また漢文に比べて、明治以降に発達した新しい口語文は、いかにも未熟なもの、古典的完成に遠いものと感じられたでしょう。/文体というものは、その文体を使う人の、知性と感性との全体的な反映です。そうして荷風は西洋から帰って来てから半世紀近くのあいだ、ずっと近代日本の蕪雑な文明に我慢がならず、〈完成された〉江戸末期の生活を真似てみたり、また〈完成された〉西洋風の生活を試みたりして過ごしました。それは日常の必需品の端ばしに至るまでに、徹底したものでした。」(p.143) 〈 〉原文傍点

今の私は、荷風を読むよりも、荷風について書かれたものを読むことの方が多い。このことについては、すでにこのブログでも触れたことである。

ともあれ、荷風が近代の口語文を嫌ったことは確かなことのようである。それは、荷風の「作品」であるところの『断腸亭日乗』を見てもわかる。これを、荷風は、文語文で書いている。

荷風のようになることは、もはやできない。現に、この本、『文章読本』を書いている中村真一郎自身が、この本自体を、近代の口語文で書いているのである。現代においては、近代の口語文以外に、文章の選択肢はないといってよい。

そのなかにあって、その可能性を様々に探る文学的なこころみもあっていいだろう。と同時に、日本語の文章史において、我々の知性、感性が、近代の口語文とともにあるのだということに、自覚的である必要がある。

荷風の時代には、まだ、漢詩文や、江戸の文学などが、同時代のものとしてあった。また、鴎外や鏡花のような日本語文の可能性も残されていた。だが、現代の日本語においては、もはやそのような選択肢はない。

であるならば、このような時代の流れのなかにあることを自覚したうえで、口語文による、知性と感性の表現を追求していかなければならない。

現代の口語文によるすぐれた知性と感性の事例として、私は、例えば井筒俊彦の文章があると思っている。この夏の間にその著作……主に、イランの革命からのがれて日本に帰ってからのもの……のいくつかを読み返してみた。すぐれた知性によるすぐれた日本語の文章であると私は思う。現代日本語の口語文の可能性は充分にのこされていると思う次第である。