『モーム短編選』(下)岩波文庫2017-10-12

2017-10-12 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年10月7日
『モーム短篇選』(上)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/07/8696546

岩波文庫の『モーム短編選』、その下巻の方を見てみる。

収録作品は、
「物知り博士」
「詩人」
「ランチ」
「漁夫サルヴァトーレ」
「蟻とキリギリス」
「マウントドレイゴ卿」
「ジゴロとジゴレット」
「ロータス・イースター」
「サナトリウム」
「大佐の奥方」
「五十女」
「冬の船旅」

この本を読みながら付箋をつけた箇所。

「フロイトやユングその他の精神分析医が書いたものは全部知っていた。」
『マウントドレイゴ卿』p.63

「私の考えでは人間は誰でも一個の自我でなく、いくつもの自我から出来ています。」
『マウントドレイゴ卿』p.97

作中人物の言っていることだから、これが、すぐに作者(モーム)の考えというわけではないだろう。だが、フロイトなどの心理学、それから、人間を形成する多様な自我の存在、このようなものがモームの視野の中に入っていたことは確かだろうと思う。

このような箇所をうけて、解説の次の部分を読むと興味深い。

(「物知り博士」について)「ケラーダだけでなく外交官の妻についても、私が彼女には外見では分からない部分があった、と述べると、今日の読者は言うかもしれない。「人間なんか分かったもんじゃない。誰だってどんなことだってやりかねない。人間って、そういうものですよ」と。しかし、このような皮肉な人間観が一般化したのは、そう古いことではない。モームが創作活動を始めた二十世紀初頭には、英米、同じく日本では、世間の人はそんな考えを受け入れていなかった。」(pp.336-337)

この解説の箇所を読んで、なるほどそういうものかと感心してしまった。人間には、表面的に現れている部分では知ることのできない、奥深い面がかくれている……このような人間観は、今日ではむしろ普通だろう。だが、文学の世界のなかで、このような人間観が定着してきたのは、意外と新しいことのようだ。

そう思ってモームの作品をあらためて思い返してみると、このような今日に通じる人間観を描いた短篇が多いことに気付く。長編『月と六ペンス』にも、そのようなところがある。隠されている水面下の人間の本性というべきものである。

モームの作品が今日でも読むに価するところがあるのは、このような人間観があってのことだと思う。あるいは、逆に、今日の我々がこのような人間観をもっているからこそ、それを文学的に表現したモームの作品を読んでひかれる。

ところで、20世紀になってからの日本の文学、小説というと……私などであれば、漱石とか、芥川の作品を思い浮かべるのであるが、これらについてはどうだろうか。表面には出てこない人間の奥底にある不可解なもの、それを描き出そうとした作家であったように読むことができるかもしれない。

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