ヤツデ2017-11-01

2017-11-01 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はヤツデである。地味な白い花をさかせる。

我が家の近辺にいくつか植わっている。見ていると白い花のようなものがある。花が咲いているようである。調べてみると、ヤツデは秋に花をつけるとある。

ジャパンナレッジで、日本国語大辞典を検索してみる。

ウコギ科の常緑低木。用例の初出例は、俳諧・毛吹草(1638)に、「八手の花」としてあるのが最初である。江戸時代の初めから確認のとれることばのようである。

これまで、ヤツデの葉を見ることはあっても、花をしげしげと見ることはなかった。身近な植物など写真に撮り始めて、気付いた花のひとつである。そろそろ紅葉のはじまろうかというころに咲く、清楚な感じのする花である。季語としては、「やつでの花」として、冬になるとのこと。

ヤツデ

ヤツデ


ヤツデ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『日の名残り』カズオ・イシグロ2017-11-02

2017-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『日の名残り』(ハヤカワepi文庫).早川書房.2001 (中公文庫.1994)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310003.html

今年のノーベル文学賞である。読んでいなかったので、読んでみることにした本。作者、カズオ・イシグロの名前は知ってはいたが、これまでその作品を読むことはなかった。

ノーベル文学賞は、いくぶん政治的な傾向があるといってよいだろう。去年は、ボブ・ディランであったことは、印象に残っている。だが、今回のカズオ・イシグロの受賞は、文句なしにその文学的価値に与えられたものであるといってよい。そのような感想をいだかせる作品である。

私が、この小説を読み始めて感じたことは、失ってしまったものへの哀惜の念、喪失感の小説であるということ。この意味において、以前、とりあげて書いたことのある『細雪』(谷崎潤一郎)に近いものを感じた。

かつて『細雪』についてふれたとき、角川文庫版の内田樹の解説について言及しておいた。その箇所を、再度、引用しておく。

やまもも書斎記 2017年2月3日
『細雪』谷崎潤一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/03/8348853

「『細雪』は喪失と哀惜の物語である。指の間から美しいものすべてがこぼれてゆくときの、指の感覚を精緻に記述した物語である。だからこそ『細雪』には世界性を獲得するチャンスがあった。」(pp.298-299)

「「存在するもの」は、それを所有している人と所有していない人をはっきりと差別化する。だが、「所有しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」人を〈喪失感においては差別しない〉。谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。」(p.300) 〈 〉内、原文傍点

ここで指摘されている、谷崎文学の普遍性、世界性についてのことは、そのまま『日の名残り』にもあてはまるといってよいのではないだろうか。

21世紀の日本に生きている我々にとって、20世紀前半の英国、その貴族階級の生活、そして、それを支えていた「執事」という役職。そのようなものは、ものの本の知識としては知っていても、現実のものとしては縁の無いものである。だが、その縁の無いものを描いているこの小説に、深く共感するところがあるとするならば、「執事」がプロフェッショナルの仕事として成り立ち得た時代を失ってしまっている、その「喪失感」においてである。

私は、この小説を、失ってしまったものへの喪失感を描いたものとして読んだ。そして、この喪失感こそは、文学が普遍性、世界性を獲得する第一の手がかりでもある。体験は共有できないが、喪失感は共有できる。

ノーベル文学賞の受賞ということで、この作品については、すでに多くのことが語られていることと思う。それらに対して、ことさら私が付け加えるほどのこともないであろう。が、強いて述べるならば、私は、この作品を読んだとき、何よりも喪失感の物語として読んだのであり、そして、思い浮かべたのは『細雪』であった、ということを書きとどめておきたい次第である。
追記 2017-11-03

この続きは、
やまもも書斎記 2017年11月3日
『日の名残り』カズオ・イシグロ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/03/8720067

『日の名残り』カズオ・イシグロ(その二)2017-11-03

2017-11-03 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年11月2日
『日の名残り』カズオ・イシグロ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/02/8719470

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『日の名残り』(ハヤカワepi文庫).早川書房.2001 (中公文庫.1994)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310003.html

この小説が、失ってしまったものへの哀惜の念の小説である、ということはすでに述べた。だが、この小説は、それだけのものではない。ちょうど『細雪』が、喪失したものへの哀惜の念の小説でありながら、同時に、戦前の阪神間の中流階級の生活誌とでもいうべき側面をもっているのと同様、『日の名残り』も、20世紀前半の英国のある側面をきりとってみせてくれている。

時代的背景としては、第一次大戦から第二次大戦までの間。主な舞台となるのは、英国貴族の邸宅。だが、この小説の主人公は、貴族ではない。貴族の主人につかえている「執事」である。執事には、執事としての、プロフェッショナルの仕事がある。今は年老いた執事が、かつての時代を回顧して語る枠組みになっている。

その構造は複雑である。

まず、主人公・執事という視点の設定にある。執事であるからには、その邸宅で行われる行事の裏方全般をとりしきらなければならない。決して表に出る仕事ではない。そして、その貴族の邸宅で行われる行事……外交にかんする非公式の会議……もまた、表だった政治の世界からすれば、裏側に位置することになる。この意味で、執事の仕事は、二重に閉ざされた裏側の世界で展開することになる。だが、それはそれとして、そこにはプロの仕事が要求される。

また、主人公のつかえた主人がどのような外交的立場であったかというと、歴史の結果を知っている現代の我々……それは、当然ながら、この小説の語り手もその視点に立ちうるわけであるが……から見て、決して評価できるという仕事ではなかったことになる。(はっきりとそのような評価が書いてあるわけではないのであるが、そのように読める。)

しかし、にもかかわらず、執事は、その仕事のプロとして、その会議を支えねばならないし、その会議に関与したことが、ほこりでもある。

決して歴史的、政治的には評価されることはない行事、それに裏方として関与することへの、屈折した(というべきであろうか)矜恃の意識。これが、ほろにがい哀惜の念とともに、語られる。

ともあれ、20世紀前半の英国の貴族の邸宅での執事の仕事とはこんなものであったのか……その当時、貴族の政治、外交への関与はどんなものであったのか……ということについての、ある種の歴史情報小説のような側面が、この作品にはある。それへの興味関心が、この作品の大きな魅力になっていることは確かである。

第一次大戦から、第二次大戦までの間、英国の貴族が政治、外交の面で、どのような役割をはたすものであったのか、これを大きな背景として、そこで仕事をした執事という役職、それが、もう今では無くなってしまったこと……その邸宅も、今では、アメリカ人のものになってしまっている……への哀惜の念、あるいは、かつての偉大な時代の英国への懐古の情、これが、しみじみと語られるところに、この作品の妙があるといってよいと思うのである。

そして、うまいのは、その語り口である。実に淡々とした述懐でありながら、政治的には波瀾万丈の時代の裏側を、丁寧に描いている。

この作品は、一種の歴史小説といってもよい側面があるのだが、しかし、これは、歴史書としては描けないだろう。文学、小説というものでしか描くことのできない、ある時代の、ある社会の、ある人びとの生活と歴史を描きだし、語ることに成功している。文学、小説というものが、なにがしか人の心を動かすものであるとするならば、まさに、この作品は、文学であるというにふさわしい。

『スティール・キス』ジェフリー・ディーヴァー2017-11-04

2017-11-04 當山日出夫(とうやまひでお)

ジェフリー・ディーヴァー.池田真紀子(訳).『スティール・キス』.文藝春秋.2017
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907444

毎年、読むことにしている。ジェフリー・ディーヴァーの新作は、出れば買っている。これは、『ボーン・コレクター』を買った……今から考えてみればたまたまであったのだが……それ以来の習慣のようなものである。待っていれば、文庫版(文春文庫)になる。しかし、文庫版になったところでそう安くなるということもないので、単行本が出た時に買っている。

また、ジェフリー・ディーヴァーの作品は、その時代の最先端の時事的な問題をネタにしたものが多いので、新鮮味のあるうちに読んでおいた方がいい。

今回のテーマは、「IoT」。それに対するハッキング。(まあ、ここのところまでは書いていいだろう。)

これを読むと、確かに、ミステリとしては一級のしあがりになってはいるのだが、しかし、ちょっと無理があるような気がしてならない。サイバー犯罪については、リンカーン・ライムのような、科学的(主に、化学、物理の分野)の捜査が通用しない。それを、無理に、犯人に物証を残させるようなストーリーの展開になっている、と感じるところがある。でなければ、リンカーン・ライムの科学的な捜査手法の出る場面がない。

このような不満めいたところが少しあるとはいうものの、今の時代、これからの時代の生活に必須になる、モノとインターネットの世界の問題を、この作品は描いている。

そして、メインの犯罪となる以外に、サブのストーリーとして、いくつかの物語が展開する。これも、巧妙に作品におりこまれていて、読ませるものになっている。

ところで、このリンカーン・ライムのシリーズを読むと、いつも感じるのは、「PC」(政治的な正しさ)ということ。『ボーン・コレクター』から、ずっと読んできているのだが、特に、このリンカーン・ライムのシリーズは、「PC」の側面をつよく出した語り口になっている。現代のアメリカ社会のある側面を、描いている作品になっているとはいえる。

『わろてんか』あれれこ「笑いを商売に」2017-11-05

2017-11-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第5週「笑いを商売に」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/05.html

前回は、
やまもも書斎記 2017年10月29日
『わろてんか』あれこれ「始末屋のごりょんさん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716177

いよいよ、米屋の商売も終わりになった。藤吉とてんは、笑いを商売にすることになる。

この週も見どころはいくつあったと思うが、やはり気になるのは、伊能栞の存在。パーマの機械の契約書を見てもらいに、てんは栞のもとを訪れる。これから、てんが笑いをビジネスにしていくなかで、この伊能栞の存在がどのように関係してくるか、近代的なビジネスのセンスの持ち主として、描かれることになるのだろうと思う。

ここで登場したときも、伊能栞は、大阪方言を使っていなかった。東京方言で話していた。てんが京都方言をつかい、藤吉や啄子が大阪方言をつかうなかで、伊能栞の東京方言はきわだっている。

ところで、次週からいよいよ本格的に笑いを商売にするようである。だが、あるいは、今でもそうだと思うのであるが……その当時、寄席の興行ということには、その社会の利権がからんでいるはずである。いきなり米屋が転業して、寄席商売を始められることはないであろう。そこには、いろんな壁がたちはだかっているにちがいない。これを、これからどう描くのか気になるところである。

回想シーンで、藤吉が寄席に行ったときのことがあった。また、長屋で、啄子が藤吉に怒りをぶつけるシーン。これらのシーンが、シリアスでありながら、どこかコミカルであると同時に、また切なさのあるような描き方であったのが印象に残っている。

人が笑うのは、楽しいときばかりではない。人生の苦労のなかでも、人は笑う。あるいは、笑いをもとめる。そのような笑いの側面を、このドラマは、描いていくことになるのだろう。

大阪の笑いビジネスを描いたドラマだからといって、見ていて笑えるドラマ……喜劇……になるかというとそうではないだろう。それを期待して見てはいけないと思う。人生の苦楽の裏側にある、哀切をふくんだ笑いこそ、このドラマに期待したいと思っている。

追記 2017-11-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年11月12日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/12/8725651

時計を買った2017-11-06

2017-11-06 當山日出夫(とうやまひでお)

時計をひとつ買った。ソーラーの電波時計である。アナログ表示。小さいので、机の上においておくのに買った。

学生の時に買った時計……鉄道時計……もまだ持っている。かなり精確であるが、月に数秒は誤差がでるので、年に何回かは、時刻を合わせないといけない。

今の生活で、時計として、見ることが多いのが、実は、実物の時計ではない。パソコンの時計である。今、メインにつかっているのは、Windows7のマシン。この機種までは、デスクトップにアクセサリの時計(アナログ表示)を表示しておける。それとカレンダーも。これが、便利なので、実際に、時計やカレンダーを見るときは、これを見ることが多い。

これが、他につかっているWindows10マシンになると、無くなってしまっている。Windows8以降、この機能が無くなった。

以前にも書いたことがあると思うが、私は、自分の部屋に、時計(壁掛けの大きいの)と、カレンダー(壁に掛ける文字のおおきいの)は、おかないことにしている。自分の部屋にいるときぐらい、カレンダーからも、時計からも、自由になりたいと思っているからである。

しかし、まったく不要かというとそうではない。時刻を知る必要、日付を確認する必要はある。そのために、鉄道時計と、小型の卓上カレンダーを買って机の上においておくことにしている。

時計に贅沢をしようとは思わない。また、時間にしばられた生活をおくりたいとも思わない。だが、時間に正確であろうという生活の心がけは、いまだにかわっていない。時計が増えたからといって、使える時間が増えるわけではない。時刻がわかればいい。そして、見やすければいいのである。上等の時計ではないが、これからの生活の伴侶になるであろう。

思い起こせば……中学生になって買ってもらった腕時計は、一日に一分ほどの誤差があったかと憶えている。また、毎日、ゼンマイを巻く必要があった。大学生になるまでつかっていた。朝、家でテレビかラジオの時報で時計をあわせて、夜になると誤差があるので見て頭の中で時刻を適当に修正する必要があった。大学生になって、その時計も故障したので、クオーツの時計にした。それも、その後10年以上はつかっただろうか。

新しく買った時計は、ソーラーの電波時計なので、基本的に、時刻合わせとか、電池の交換の必要がない。机の上におきっぱなしにしておく。もうこの年になると、自分の寿命よりも、時計の寿命の方が長いか、という気がしてくる。もうこれから、新しく時計を買うことはないだろう。

『おんな城主直虎』あれこれ「井伊谷のばら」2017-11-07

2017-11-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年11月5日、第44回「井伊谷のばら」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story44/

前回は、
やまもも書斎記 2017年10月31日
『おんな城主直虎』あれこれ「恩賞の彼方に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/31/8718137

この回にきて、万千代と直虎との直接対決という場面になった。中世の人である直虎と、近世の人である万千代である。

万千代は主張する……井伊の家を再興して、井伊谷の土地を我が物とすることに、なんの問題があるというのか。

これはそのとおりだと思うのだが、ちょっと疑問に思うことがいくつか。

万千代(虎松)が、井伊を再興するとなったとき、その井伊の家の当主は依然として、直虎のままであって、直虎は万千代(虎松)の後見という立場はかわらなかった、ということでいいのであろうか。では、現在の井伊の家はどのようになっているのか。井伊谷に所領があるというわけでもないようだし、まあ、百姓の仕事はしているようだが。かといって、近藤の支配下にあるようでもない。いったいどういう身分、地位、なのであろうか。このあたりが、どうもあいまいである。

また、万千代についても、新参の小姓の身分で、一万石はないだろうと思ってしまうのだが、さてどんなものなのであろうか。一万石も与えるなら、しかるべく元服して、井伊の家の当主となってから、という手はずになるのが、普通ではないだろうかと思ってしまうのだが。

ともあれ、ここにきて、万千代と直虎の生き方の対立が決定的なものとなった。

直虎は、社会的な身分制度から自由に生きているようにに見える。女性、武士、出家、百姓、商人、そして自由の民……さまざまな身分、職種を、渡り歩いてきた人生をふりかえっている。直虎は、中世、戦国の時代にあって、最も自由に生きた人間なのかもしれない。この意味では、中世、戦国の時代を描いたドラマとしては、もっとも自由な生き方をした人物を描いたことになるであろう。

一方、万千代は、徳川家康の家臣団のもとで、武士として出世することだけを望みとしているようだ。徳川幕府のもとでの大名として活躍することになる井伊の家の祖となる、直政の姿がここにあるのだろう。

いってみれば、中世の自由なエトスを直虎が代表し、かたや、徳川封建制度のエトスを万千代が代表しているともいっていいだろうか。

これから、徳川のもとでの井伊の家が栄えていくプロセスに、直虎がどのようにかかわっていくことになるのか、これが見どころということになるのであろう。

そして、今回は、ネコも登場していた。だが、祐椿尼が死んでしまうと、そのネコはどうなるのか、ちょっと心配である。次回もネコは登場するであろうか。

追記 2017-11-14
この続きは、
やまもも書斎記 2017年11月14日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/14/8727171

センリョウの実2017-11-08

2017-11-08 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花(植物)の写真の日。庭のセンリョウの木が、実をつけはじめている。この木の花については、以前に、このブログに掲載したことがある。

やまもも書斎記 2017年7月12日
センリョウの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/12/8618755

見てみると、この時に写した木が、すべて実をつけているとはかぎらないようだ。まったく実をつけていない木もある。これは、どうしたことなのかと思うのだが、もうちょっとよく観察しておけばよかったかと今になって思う。

庭にいくつかあるのだが、概ね、赤い実をつけるようである。

これから冬になって、花の乏しくなる時期、庭で、このセンリョウの実の色が鮮やかに目につくようになる。寒くなった頃、また写してみようかと思っている。

センリョウ

センリョウ


センリョウ


センリョウ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR f/3.5 85mmG ED VR

時計あれこれ2017-11-09

2017-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)

時計の話をつづける。

やまもも書斎記 2017年11月6日
時計を買った
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/06/8721804

学生の時、それまでつかっていたゼンマイ式の時計が故障して、クオーツ時計に買い換えた。大学の生協にお店を出している時計店で買った。その時、たまたまあったので買った時計は、秒針の無いタイプのものであった。

普通の時計、アナログ時計は、三つの針がある。時、分、秒、をそれぞれにしめす。そのうち、秒針がついていないものをえらんだ。

今は、このようなタイプの時計は売っていないか、あるいは、あっても希なようである。

実際に使ってみての感じとしては、これで充分というものであったのを憶えている。実生活で時刻を知る必要があるとき、秒針までは必要ない。分までだいたいわかれば充分である。

その時計も故障して、次に買い換えてからは、秒針のある普通のタイプのものをつかっている。秒針がついていると、秒単位で時間がわかるので、何か、時間に縛られているような感触がどことなくある。また、秒針がついていると、秒単位で、時刻を合わせたくなる。遅れていたり、進んでいたりすると、気になる。

いったい人間の通常の生活が、秒単位で刻まれる必要があるのだろうか。特殊な職業、例えば鉄道関係の仕事ならば秒単位の時間の管理が必要になるだろう。近年の私の経験でいえば、学会、研究会などの司会をするとき、時間を厳格に計る必要があるので、この時は秒針があった方がいい。だが、普通の人間の普通の生活にとっては、無くてもさしさわりは無いものである。いや、むしろ、無い方が、いっそのこと自由な感じがするぐらいである。

それから、その時計店の主人に教えてもらったこととして、時計の時刻の合わせ方がある。クオーツの場合は、時計の針を、時間を少し進めてからもどして時刻をあわせる。理由は知らないが、そのようにして合わせるものらしい。その後、WEBなどで見てみると、時計の時刻の合わせ方としては、これであっているようである。

ともあれ、電波時計になれば、秒単位で精確に時刻を自動的にあわせてくれる。便利になったものである。

そういえば、昔の時計の電池の寿命はだいたい一年ぐらいだった。今は、もっともつ。その昔、クオーツ時計を使い始めたとき、学生のときであるが、年に一度、自分の誕生日を目安に時計の電池を交換していたものである。だから、その当時は、時計の電池切れということを経験していない。それも、近年の時計の電池の寿命が長くなったので、年に一度の交換ということがなくなった。何年かおきに電池の交換で時計屋さんにいくことになった。

これもソーラー時計になれば、電池の交換も必要がない。これも、便利になったものである。

『明暗』夏目漱石2017-11-10

2017-11-10 當山日出夫(とうやまひでお)

「定本漱石全集」第11巻『明暗』.岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b313876.html

漱石の『明暗』を読んだ。何回目になるだろうか。新しい「定本漱石全集」が刊行されているのに合わせて漱石の作品を読んでいこうとおもいつつ、途中でとまってしまっていた。『明暗』まで来てしまった。でもまあ、最後の『明暗』を読んで、そこから遡っていってもいいかと思って読んだ。

若い頃……学生のころ……一番好きな漱石の作品は『猫』であった。これも何度読み返したことだろうか。前の17巻本の全集の第一巻目である。この本で一番よく読んだだろうか。

『猫』のどこにひかれたのか。たぶん、その諧謔のうらにある「神経衰弱」に対してである。『猫』は、単なるユーモア小説ではない。この作品を書いていたころの漱石は、「神経衰弱」に悩まされていたことは、知られていることだと思う。『猫』を読むと、そのような作品を書かざるをえなかった、漱石の心理の有様が、なんとなく察せられる。「神経衰弱」に悩む漱石に共感して、『猫』を読んでいたといっていい。

今、この年になって……漱石の没年を10年以上もすぎて、ただ馬齢を重ねるだけになってしまって……一番こころひかれる漱石の作品は、晩年の『明暗』である。

この作品のどこにひかれるのか。それは、「則天去私」である。いや、現代の漱石研究の立場からするならば、晩年の漱石が「則天去私」の境地にあったとはいえないということになる。とはいっても、晩年の漱石が、『明暗』の原稿執筆と同時に漢詩文の世界……それを「則天去私」といっておくことにするが……に遊んでいたことは知られている。漢詩文の世界にひかれるような、それとは異質な人間のエゴイズムを描いた作品として『明暗』はある、ということになる。

『明暗』を読んで感じることは、この作品自体の面白さもあるが、その行間・紙背から感じ取ることのできる、漢詩文の世界に遊びたくなる、こころの機微である。

無論、小説として読んで、『明暗』は面白い。だが、それだけではない。『明暗』を書きながら、同時に漢詩文の世界にひたっている漱石の心情に、気持ちがなびくのである。

このように感じるということは、私が、年をとってきたせいなのだろうと思う。若い時のような感覚で、漱石の作品を読むことはできない。年をとるにしたがって、漱石の作品から感じ取るもの、その作品への好みもまた変わってくる。

『明暗』を読んで、これからさかのぼって漱石の作品を読んでいくことにしようかとおもっている。