『日の名残り』カズオ・イシグロ2017-11-02

2017-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

カズオ・イシグロ.土屋政雄(訳).『日の名残り』(ハヤカワepi文庫).早川書房.2001 (中公文庫.1994)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/310003.html

今年のノーベル文学賞である。読んでいなかったので、読んでみることにした本。作者、カズオ・イシグロの名前は知ってはいたが、これまでその作品を読むことはなかった。

ノーベル文学賞は、いくぶん政治的な傾向があるといってよいだろう。去年は、ボブ・ディランであったことは、印象に残っている。だが、今回のカズオ・イシグロの受賞は、文句なしにその文学的価値に与えられたものであるといってよい。そのような感想をいだかせる作品である。

私が、この小説を読み始めて感じたことは、失ってしまったものへの哀惜の念、喪失感の小説であるということ。この意味において、以前、とりあげて書いたことのある『細雪』(谷崎潤一郎)に近いものを感じた。

かつて『細雪』についてふれたとき、角川文庫版の内田樹の解説について言及しておいた。その箇所を、再度、引用しておく。

やまもも書斎記 2017年2月3日
『細雪』谷崎潤一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/03/8348853

「『細雪』は喪失と哀惜の物語である。指の間から美しいものすべてがこぼれてゆくときの、指の感覚を精緻に記述した物語である。だからこそ『細雪』には世界性を獲得するチャンスがあった。」(pp.298-299)

「「存在するもの」は、それを所有している人と所有していない人をはっきりと差別化する。だが、「所有しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」人を〈喪失感においては差別しない〉。谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。」(p.300) 〈 〉内、原文傍点

ここで指摘されている、谷崎文学の普遍性、世界性についてのことは、そのまま『日の名残り』にもあてはまるといってよいのではないだろうか。

21世紀の日本に生きている我々にとって、20世紀前半の英国、その貴族階級の生活、そして、それを支えていた「執事」という役職。そのようなものは、ものの本の知識としては知っていても、現実のものとしては縁の無いものである。だが、その縁の無いものを描いているこの小説に、深く共感するところがあるとするならば、「執事」がプロフェッショナルの仕事として成り立ち得た時代を失ってしまっている、その「喪失感」においてである。

私は、この小説を、失ってしまったものへの喪失感を描いたものとして読んだ。そして、この喪失感こそは、文学が普遍性、世界性を獲得する第一の手がかりでもある。体験は共有できないが、喪失感は共有できる。

ノーベル文学賞の受賞ということで、この作品については、すでに多くのことが語られていることと思う。それらに対して、ことさら私が付け加えるほどのこともないであろう。が、強いて述べるならば、私は、この作品を読んだとき、何よりも喪失感の物語として読んだのであり、そして、思い浮かべたのは『細雪』であった、ということを書きとどめておきたい次第である。
追記 2017-11-03

この続きは、
やまもも書斎記 2017年11月3日
『日の名残り』カズオ・イシグロ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/03/8720067