『事件』大岡昇平(その二)2017-12-01

2017-12-01 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年11月30日
『事件』大岡昇平
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/30/8737349

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「裁判批判はいくらやっても差しつかえない。(中略)ただそれを行う文化人も投書家も、まずなぜ自分がその事件について、意見を発表したくなるのか、ということを、自分の心に聞いてみる必要があるのかもしれない。」(p.105)

「法廷において、最後に勝つものは真実である、という考えは、あまりに楽観的にすぎるとしても、真実を排除した裁判は、民主主義社会では行われ得ないし、真実には実際それだけ裁判官の心証を左右する力があると見るべきである。」(p.311)

「自白あるいは法廷の証拠調べによって、疑う余地なしというところまで、事実がはっきりしてしまう事件はめったにない。大抵は多少の疑問を残したまま、大綱ににおいて過たずという線で判決を書くほかはない。絶対的真実は神様しか御存知ないのだから、正しい裁判手続きによって、「法的真実」をうち立てればよい、という論者もいるくらいである。」(p.461)

この『事件』という小説は、犯罪小説ではない。裁判小説である。1961年(昭和36)に新聞連載で書かれたこの小説は、随所に、戦前の裁判、法曹のあり方と、現在(この小説の書かれた)とを比較している。戦前は、成績のよいものから判事になっていったのだが、戦後になってそうではなくなった、とか。あるいは、戦前の裁判所では、検事は裁判官と同じように上段に位置したものが、戦後になって弁護士と同列、対等の位置におかれるようになったとか。法制史、法曹史、とでもいうべきところに、かなりの言及がある。

戦後になって、まだ戦前の記憶が残っている時代において、また、その時代に活躍している法曹関係者は、戦前に教育をうけている人が多いという状況をふまえて、戦前から戦後のかけての、裁判制度のうつりかわりにも、かなり触れている。

また、ところどころ、松川事件のことも、話題にしている。

そして、著者(大岡昇平)は、上記に引用したように、裁判で絶対の真実が明らかになるとは、考えていないようである。法律的に真相を解明すればよい、その落としどころで判決が決まればよい、としている。はたして、裁判という手続きで、犯罪の真実を明らかにすることができるのか……この点こそ、『事件』という裁判小説が描きたかったことかもしれない。

小説のなかで、ときおり、実際に行われる裁判の手続きの公正さへの疑義とでもいうべき指摘もみられる。

著者(大岡昇平)が望んでいるのは、戦後民主主義社会における、公正な民主的な裁判制度と、その運用であったろうことは、この小説から読み取れる。まさにこの『事件』という小説において、「裁判」そのものを描く(そのため、一般のミステリのように「犯罪」は、あまり描かれない)ことによって、あるべき民主的な裁判のあり方について我々は考えるべきであるというメッセージを伝えたかったのである……私は、そのようにこの小説を読んで感じるのである。

追記 2017-12-02
この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月2日
『事件』大岡昇平(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/02/8738540

『事件』大岡昇平(その三)2017-12-02

2017-12-02 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2017年12月1日
『事件』大岡昇平(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/01/8738016

この小説の魅力は、というよりも、今読んでも説得力のある小説だと感じさせる点のひとつは、その「犯罪」にもあると思う。

事件はいたって単純な事件である。犯人の男、その付き合っていた女性が妊娠した。その女性の姉は、中絶するようにせまる。そして、事件がおこる。男は女性の姉を殺してしまう・・・まあ、書いてしまえばこれだけのことである。

いわば、現代でもごく普通に起こりうるような事件であるといってよい。特殊な時代的背景があるというわけではない。週刊誌的にいえば、痴情のもつれである。

また、目撃証言も、物的証拠も、非常に限定的である。(裁判がはじまってから、はじめてあきらかになる、という要素はあまり多くはない。その解釈をめぐっては、検察側と弁護側が争うことになるが。そして、その過程は、スリリングで、ミステリとしてよく出来ている。)

しかし、ありふれた事件でありながら、昭和30年代の、東京近郊の小さな町の様子が、実にリアルに描かれている。読んでいると、その時代の空気、人びとの感じ方というものを、感じ取ることができる。

昭和30年代なかばという時代は、まだ戦争の影が残っている時代でもある。しかし、一方で、新しい高度経済成長に向かって進んでいく時代である。その微妙な時代の雰囲気を、この事件とそれにかかわる登場人物から感じられる。

今、21世紀になってから、戦後70年以上がたって、この小説を再読してみて、いささかも古びた印象がない。これは、作者(大岡昇平)が、普遍的な視点から、登場人物を、その時代の中で描いたから、ということになろうか。

『事件』は、まさにその時代を描いた小説でもある。

『わろてんか』あれこれ「女のかんにん袋」2017-12-03

2017-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第9週「女のかんにん袋」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/09.html

前回は、
やまもも書斎記 2017年11月27日
『わろてんか』あれこれ「笑売の道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/27/8735329

どうもこのドラマは、展開が早い。実際の人物をモデルに、その後半生まで描くということなら、テンポが速くなるのはいたしかたないかもしれない。が、もうちょっとじっくりと、若い夫婦の寄席経営の苦労を描いてもいいように思えるが、どうだろうか。

今回は、かんにん袋。寄席の仕事で家庭をかえりみない藤吉に、ついにてんはかんにん袋を破裂させてしまう。まあ、土曜日の段階で、もとにもどって、円満な家庭をとりもどしたところで終わってはいたが。

ところで、この週になって、風太が新たな役割で登場してきている。寺ギンのところで、芸能の仕事をはじめるらしい。これで、藤吉、伊能栞、それから、風太と、てんをとりまく男性たちが、それぞれに、芸能ビジネスに加わることになった。これが、これからの展開にどう影響してくるかなのであるが、しかし、どうみても一番ビジネスの才覚のなさそうなのが藤吉である。が、それぞれの登場人物が、どのような立場で、芸能ビジネスにとりくんでいくのか、その違いが、これからの見どころかもしれない。

たぶんこのドラマは、これからの藤吉のビジネスの失敗を、なんとか才覚と工夫でのりきることになる、てんの内助の功を描くことになるのだろう。
追記 2017-12-10

この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月10日
『わろてんか』あれこれ「笑いの神様」

『日本の詩歌』大岡信2017-12-04

2017-12-04 當山日出夫(とうやまひでお)

大岡信.『日本の詩歌-その骨組みと素肌-』(岩波文庫).2017
(講談社.1995 岩波現代文庫.2005)
https://www.iwanami.co.jp/book/b325111.html

コレージュ・ド・フランスでの講義録(1994、1995)ということなのだが、そのあたりを割り引いて読む必要があるだろうか。たぶん、現代において、日本文学の分野で、和歌や歌謡の歴史を研究する立場からみるならば、いろいろと言いたいところがあるであろう。

だが、そうはいっても、日本の和歌、歌謡の歴史を、菅原道真の漢詩から始めて、紀貫之、和泉式部、それから、さかのぼって万葉集の笠女郎におよぶ。それから、梁塵秘抄から閑吟集にいたる歌謡を見る。このようにして、日本の和歌、歌謡の歴史を概観したこの本は、日本文学などを専攻する学生が、専門の論文を読む傍らに、副読本として見るには適当な本であると思う。その一方で、最新の和歌、歌謡の研究に目をくばるということが必要ではあるが。

私の勉強の範囲で、ちょっとだけ書いておくならば、最初の章に出てくる菅原道真の作品。そのなかで、庶民の困窮を歌った詩……これは、風諭詩というジャンルでとらえるべきもの、白楽天の作品の日本における受容の一つの表れとしてみるべきだろう。

蛇足を承知で書くと、今回の岩波文庫版の解説を、池澤夏樹が書いている。それを読んで……平安時代になって、女性が、五〇の平仮名をつくった、とあるのは、どうにもいただけない。日本文学、日本語史の、学部での概論的な講義の知識のレベルでみても問題がある。

道真の漢詩、それから、閑吟集の歌謡などをふくめて、日本の詩歌を概観したこの本は、読むに価するとは思う。これを見ながら、日本文学などの勉強で、さらに何を考えるかが、学生にとっては、課題となるにはちがいない。

『おんな城主直虎』あれこれ「信長、浜松来たいってよ」2017-12-05

2017-12-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年12月3日、第48回「信長、浜松来たいってよ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story48/

前回は、
やまもも書斎記 2017年11月28日
『おんな城主直虎』あれこれ「決戦は高天神」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/28/8736014

このドラマ、最後にもってきたのは……本能寺の変の真相、である。

歴史の結果として、本能寺で織田信長は死ぬ。豊臣秀吉が次の時代をになう。そして、最後に天下を治めるのは、徳川家康である。だが、何故、明智光秀は本能寺の変をおこすことになったのか……その「真相」は、謎であるといってよい。これまで、いくつの大河ドラマで、本能寺が描かれてきただろうか。しかし、その中にあって、この『おんな城主直虎』ほど、その「真相」に迫ったものはなかったのではないか。

このドラマは、全50回のはずだから、残すところあと2回。本能寺の変を経て、その後の徳川の行く末まで描くことになるのだろうか。

ともあれ、私のこれまで見てきた記憶では、このドラマで、「天下」ということが、正面きって登場したのは、この回が始めてではなかったろうか。それまでは、世の中の安寧・平安ということは出てきても、「天下」の統一ということは出てきていなかったように覚えている。それが、ここにきて、「天下」は誰の手にわたることになるのか、という方向に向かってきた。もちろん、最終的に「天下」を手に入れることになるのは、信長ではなく、家康である。

最終盤になって、ドラマの主人公は、もはや誰でもない、天下の趨勢、とでもいうべきものになっている。無論、ドラマとしての主人公は直虎(おとわ)なのであるが、それが、本能寺の変にどのようにかかわることになったのか、そのいきさつが興味深い。たまたまのなりゆきで直虎(おとわ)も本能寺の変に深く関与することになる。その経緯が、巧みに織り込まれていたように思う。(多少、強引な気がしないでもないが。)

次回、本能寺で何が起こるのか、楽しみに見ることにしよう。

ただ、今回はネコは出てきていなかった。すこし残念である。

追記 2017-12-12
この続きは、
やまもも書斎記 2017年12月12日
『おんな城主直虎』あれこれ「本能寺が変」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/12/8746748

メタセコイア2017-12-06

2017-12-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日は、花ではなく樹木。メタセコイアである。

この木は、我が家の近辺にかなり数ある。紅葉し、落葉する、針葉樹である。

例によって、ジャパンナレッジ(日本国語大辞典)を見る。

スギ科メタセコイア属の学名とある。「生きた化石」といわれる由来について、説明がある。しかし、その「ことば」としての用例はのっていない。

他に世界大百科事典などの項目を見てみると、この木の発見、再発見、さらには、日本への渡来など、実にドラマチックな出来事があった。(詳細は、省略することにする。)

ともあれ、そのようなドラマチックな来歴のある木が、身近にあることに気付くことになったというのも、身の周りの植物など、写真に撮り始めて、辞典や図鑑などで確認するようになってからのことである。

WEBなど見ると、この木は今では全国にひろがっているようだ。著名な並木もある。普段、何気なく目にしていた木に、このような歴史とドラマがあったことは、今まで知らなかった。見慣れた樹木の光景であるが、半世紀前までは無かったものである。そう思ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

これからも、花や木の写真を撮っていきたいと思っている。

メタセコイア

メタセコイア

メタセコイア


メタセコイア

メタセコイア

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm F/2.8-4E ED VR

『井筒俊彦の学問遍路』井筒豊子2017-12-07

2017-12-07 當山日出夫(とうやまひでお)

井筒豊子.『井筒俊彦の学問遍路-同行二人半-』.慶應義塾大学出版会.2017
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766424652/

私が、慶應義塾大学に入学したとき、すでに、井筒俊彦は慶應を去ったあとだった。

だが、折りにふれて、その名前を耳にすることがあった。

井筒俊彦は、池田彌三郎と、慶應の予科の同期である。同じとき、文学部にかわっている。池田先生が、講義のとき、なにかのひょうしに、「井筒ってのは、…………」と語っておられたのを、今でも憶えている。井筒俊彦のいわく、自分のような人間は、スコラスティックであるのだという。ペダンティックではなく。であるらしい。(このところ、記憶だけをたよりに書いている。)

『ロシア的人間』など読んだのは、学部の学生の時だったろうか。北洋社版である。この出版社は、もう今はない。

その後、イランの革命があって日本に帰国してからの著作は出るたびごとに買っていた。いや、その前に、『思想』(岩波書店)の掲載でも読んだ。岩波ホールの講演会のときは、申し込んだ。こんなにもすぐれた知性がこの世の中に存在するのかと、驚きながら話しに聞き入ったのを憶えている。

『井筒俊彦の学問遍路』は、その夫人が書き残したもの。主に、慶應を去って国外に活動の場をもとめていた時代のことが回想してある。

読みながら付箋をつけた箇所。

「井筒の晩年のことですが、中央公論社の平林孝さんが、「先生、こんな奥様とご一緒でおもしろいでしょうね」とおっしゃったのを覚えています。おしゃべりは確かにたくさんしたのですが、本当のおしゃべりはあまりしていなくて、今となっては私も後悔しています。結局、井筒が亡くなってから、私は井筒を何となく理解し始めたのです。」(p.64)

今年の夏休み、井筒俊彦の著作のうち、日本に帰国してからのもの……主に、東洋哲学全般を論じたようなもの……を、まとめてよみかえしてみた。読むほどに、その思索の世界にひきこまれていく。新しい慶應義塾大学出版会版の全集も買ってそろえてはいるのだが、昔、買った岩波書店などの単行本で読んだ。その本が出た当時の雰囲気を感じ取りたいと思ってのことである。

これからの読書として、井筒俊彦というすぐれた日本の知性を自分なりにかみしめながら本を読んでいきたい。直接学ぶということはかなわなかったものの、少なくとも同じ時代に生きていたというのは、私の人生にとって幸運なことであったと思う次第である。

『赤光』斎藤茂吉2017-12-08

2017-12-08 當山日出夫(とうやまひでお)

斎藤茂吉.『赤光』(新潮文庫).新潮社.2000
http://www.shinchosha.co.jp/book/149421/

ふと、高校生の頃に読んだ短歌……それも学校の教科書に載っていたもの……を、読み返したくなった。『あの頃、あの詩を』を読んだ影響である。

やまもも書斎記 2017年11月23日
『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826

今でもおぼえている。

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

斎藤茂吉の短歌を読もうと思って、見てみると、いくつかある。岩波文庫版『斎藤茂吉歌集』。新潮文庫版『赤光』。それから、古本になるが中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』がある。

新潮文庫版『赤光』を読んでみた。

この本について、書いておきたいことは次の二点。

第一に、「歌集」というものを、これほどまでに一気に読んだのは始めてである。

日本語の歴史的研究という分野にいると、和歌集は目にすることがある。歴史的資料としてである。だが、近代の短歌になると、日本語史の資料としてあつかわれることは、まずないといってよい。これは、純然と文学作品として読むことになる。上代語の資料となると、「万葉集」などの歌の集が、まず資料としてうかぶ。

これまで、近代短歌にまったく無縁ということではないが……ある程度、有名なものは手にとってみたりした……だが、それほど、ある作品に傾倒するということなく、すごしてきた。今回、『赤光』(新潮文庫版)を読み始めて、ほとんど一気に全部を読んでしまった。

それほどまでに、『赤光』は、魅力的な本である。

読めば、それが「万葉集」につらなる歌風を継承しているものであることはすぐにわかる。しかし、それだけではない。近代の人間の感覚が、そこに詠み込まれている。「万葉集」からの伝統的な歌の世界と、近代の感性とが、融合した歌の世界がある。

斎藤茂吉の歌の文学史的位置というものについて、一通りの知識は持っているつもりであったが、そのような知識をもっているということと、自分自身が、読んで、そこに文学的感銘を感じるかどうか、ということは、また別のことでもある。この意味において、『赤光』は、はじめて私にとって文学作品として、現れてきたということになる。

これは、私も年をとってきたということもあるのかもしれない。そろそろ隠居的生活をおくりたい、本を読む生活をおくりたいと思っている。昔、若いころに読んだ文学作品など、もう一度手にとってみたくなる。そのようにして本を読んでいると、もう自分も年をとってしまったな、若いころのような感性で読むことはできないな、と感じる一方で、再び若いころの感性がよみがえってきて、作品にこころひかれることもある。

『赤光』は、まさに、今の私にとって「文学」……個々の歌もさることながら、歌集として……なのである。

第二には、その編集。新潮文庫版は、初版をもとにしている。

作品の配列をみると、新しいものから、古い作品へと、さかのぼって配列してある。新潮文庫版のもとになったのは大正2年の初版。これが、斎藤茂吉は、後年、成立順に配列をかえ、作品に手を加えている。大正10年の改選版である。中央公論社「日本の詩歌」『斎藤茂吉』は、この新しい改選版によっている。

歌集であるから、どちらで読んでもいいようなものかもしれないが、書物として順番に読んでいくとなると、初版の方がいい。

何故だろうかと思うのだが……やはり、「歌集」として編纂された作品として読むとき、どのように配列してあるかは、重要である。『赤光』は、初版のような配列であってこそ、文学的な魅力が増す。より完成度の高い、新しい作品が先にきて、どこか、まだ未完成と感じさせるような、「万葉集」のことばの影響を直接残しているような初期の作品を順次読んでいくことによって、この「歌集」の作者の根源的な歌人としてのエネルギーの源に触れていくような感じがある。読み進んでいくにしたがって、斎藤茂吉の歌人としての源泉にまでさかのぼっていくような印象をもつ。

初版『赤光』が、このような新潮文庫版で出たのは、著作権の関係かなと思ってみたのだが、そうでもないようだ。新潮文庫版の刊行は、2000(平成12)年。斎藤茂吉の没年は、1953年。まだ、著作権の保護期間内に、新潮文庫版が出ていることになる。著作権継承者の了承を得てのことなのであろう。

ともあれ、『赤光』の初版本が、手軽に文庫本で読めるようになっているということは、とても幸運なことであると思う。

以上の二点が、『赤光』という歌集について確認しておきたいことである。

斎藤茂吉の他、中学・高校のころ、あるいは、大学生になってから、手にとった詩集・歌集など、読み返してみたくなってきている。順次、読んでいくことにしたい。

『文学問題(F+f)+』山本貴光2017-12-09

2017-12-09 當山日出夫(とうやまひでお)

山本貴光.『文学問題(F+f)+』.幻戯書房.2017
http://www.genki-shobou.co.jp/index.html

夏目漱石の『文学論』についての本である。が、この本のタイトルには、そのことが明示されていない。これは、意図的にそうしたのだろう。『文学論』についての本でありながら、それを超えたとことの議論をしたい、そのような思いがあってのことと思われる。

だが、読んでみると、まぎれもなく、『文学論』の解読である。

漱石の『文学論』は、著名ではあるが、難解で、あまり誰も読もうとしない、という感じの本としてあったように思う。岩波文庫版でも出ているし、無論、「全集」にもはいっているが、はっきりいって、私は、これまで、きちんと読むことをしてこなかった。

ともあれ、この本が出たおかげで、『文学論』がいったいどんなことを語っている本なのか、その輪郭がつかめた……無論、著者(山本貴光)のひいた筋にしたがってであるが。

この本は、三部構成になっているが、その第一部が、「漱石の文学論を読む」として、『英文学形式論』『文学論』の、解読にあてられている。メインは、『文学論』であり、その主張となる、文学は(F+f)である……ということで、漱石が何を言おうとしていたのかの、解説になっている。

順次、現代語訳をあげ、原文を示し、また、必要に応じて脚注、参考文献の指示などがある。実に丁寧なつくりになっていることが実感される。

この本を通読してみて……脚注まで細部にわたって読むということはなかったのであるが……『文学論』の読解としてすぐれていると感じさせるのは、「問い」を設定することによって『文学論』を読んでいることである。

章節ごとの区切りに、そこで漱石は何を問いかけているのか、「問い」が設定されている。これは、実にすぐれた本の読み方であると思う。

勉強するということは、「答え」「解答」を知ることではない。そこにどんな「問い」があるのかを発見することである。『文学論』を読んで、文学とは何であるかの「答え」を見いだそうとはしていない。そうではなく、漱石が、どのような問題意識でもって文学というものをとらえているのか、「問い」をそこから導き出すことで、読み解いている。

これは、すぐれた本の読み方である。

この「問い」が重要であるということについては、すでに書いたことがある。

やまもも書斎記 2017年3月31日
人文学は何の役にたつか
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/31/8634014

この本を読んで、「文学」とは何であるかを知ることもできるだろう、また『文学論』に何が書いてあるかを知ることもできるだろう。だが、それよりも重要なことは、本を読むということは、ある問題意識をもって、その著者が何を「問い」として問いかけているのかを読みとることである、このことを実践して見せてくれた本として、この本はきわめて意味のある本だと思う。

この『文学問題(F+f)+』は、文学とは何かを考えた本であり、また、『文学論』を解読した本でもあるが、それと同時に、『文学論』からどのような「問い」を取り出すことがことができるのか、この視点から本を読んでみせた、すぐれた実践的な本である。

『わろてんか』あれこれ「笑いの神様」2017-12-10

2017-12-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第10週「笑いの神様」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/10.html

前回は、
やまもも書斎記 2017年12月3日
『わろてんか』あれこれ「女のかんにん袋」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/12/03/8739898

この週の見どころは、落語家の二人……団吾と団真、それから、お夕である。

芸人、芸能の世界に生きる人間としての悲哀を、それぞれの立場で十分ににじませている。豪遊、道楽三昧をしているような団吾であるが、その一方で芸にかける意気込みは、半端ではない。また、団真……その崇徳院がうまかった。上手なのか、下手なのか、やる気があるのか、ないのか、どうともとれるような不幸なめぐりあわせの落語家を見事に演じていた。さらには、お夕。朝ドラでは何回目かの出演になるはずだが、薄幸な若い女性を演じさせたら、実に似合っている。

このような落語家、芸人の世界を描く一方で、風鳥亭の芸人たちの労働争議、ストライキがコミカルに描かれていて面白かった。実際にそのような騒動があったかどうかは別にして、このような芸人たちと対比される形で、団吾、団真の芸にかけるそれぞれの人生の生き方が、シリアスに、かつ、哀惜を込めて描かれていた。

このドラマは、芸能ビジネスの世界を描いているが、決してお笑いドラマではない。コメディではない。が、しかし、どことなく、登場人物が真剣に演じていればいるほど、どこかしら滑稽を感じさせる。大真面目な人間の生き方ほど、滑稽に見える。それが、別の角度から見れば、芸能の世界に生きる人間の悲哀でもあるのだが。

団吾、団真、お夕は、さらに来週も出てくるようだ。楽しみに見ることにしよう。