『明治天皇』(二)ドナルド・キーン2018-01-22

2018-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

新潮文庫版の『明治天皇』の二冊目である。

一冊目については、
やまもも書斎記 2018年1月20日
『明治天皇』(一)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/20/8773017

ドナルド・キーン.角地幸男(訳).『明治天皇』(二)(新潮文庫).2007 (新潮社.2001)
http://www.shinchosha.co.jp/book/131352/

この二冊目で描かれるのは、明治維新から、明治十四年の政変、自由民権運動(植木枝盛)ぐらいまで。明治維新を経て、東京に政権が確立してから、近代的な国民国家になっていく、まさにその出発点のできごとが、基本的に編年式に語られる。

この巻を読んで印象に残るのは、やはり西南戦争である。西郷隆盛の征韓論からの動き、不平士族の騒乱、そして、おこる西南戦争とその決着。この一連のながれについては、『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)が描いたところでもある。

ちなみに、『翔ぶが如く』は、二回読んでいる。司馬遼太郎の小説は新聞連載が基本だから、途切れ途切れに読んでも筋が追っていける。電車の中で読む本と決めてカバンの中にいれておいて、昔の若い頃に読んだ。『坂の上の雲』も、電車の中で読んだ本である。

それを読んでの知識が事前にあったせいかもしれないが、歴史上起こった西南戦争を、より客観的に、東京にいる明治天皇の視点ではどのような出来事であったのか、という冷静な記述に、ある種の感銘をうけて読んだ。

この『明治天皇』(新潮文庫)の二巻目まで読んで思ったことなど、いささか書くとすれば、次の二点であろうか。

第一には、著者(ドナルド・キーン)は、アメリカの人(今では、日本国籍であるが。)この本は、その外国の目から見た日本の近代史である。普通の日本の歴史……学校の教科書に出てくるような、あるいは、一般の歴史小説で描かれるような……とは、異なる視点から歴史を見ている。

そのことがよく分かるのは、沖縄の問題。明治になって、沖縄県が設置されるまで、沖縄は琉球国という独立国であった。それが、半分は清朝に朝貢し、かたや薩摩藩の支配下にもある、という二重の立場であった。この沖縄が、明治になって、日本国の領土に組み入れられプロセスを、かなりのページをつかって記述してある。

一般の学校の日本史の教科書であれば、沖縄は、はるか古代から日本の領土の一部であったという立場である。このような立場を、著者(ドナルド・キーン)はとっていない。あくまでも、近代になってからの日本の領土としての沖縄ということで、記述してある。

これは、北海道についても同様な視点がある。北海道、樺太、千島、これらの領土が確定したのは、明治になってからロシアとの交渉があってのことである。それまで、北海道(蝦夷)は、完全に幕府の支配権の及ぶところではなかった。

また、明治14年のこと、ハワイ王国の王(カラカウア)が日本をおとづれている。このことに一つの章がつかってある。ハワイもまた、近代になってから、アメリカの領土に組み込まれた新しい土地である。明治のこのころには、ハワイはまだアメリカのものではなかった。そのハワイと明治政府との間で条約が結ばれている。幕末にアメリカと結んだ不平等条約のようなものではなく、これは対等なものであった。

このような視点で、日本の近代史を語ることは、普通の日本史では希なことだと思う。少なくとも、学校で教えている日本史では出てこない。

第二に、第二巻まで読んでも、明治天皇その人の声とでもいうべきものは、ほとんど見えてこない。『明治天皇紀』によって、史実が淡々と記述される。希に明治天皇の思いが出てくると、それは、和歌によってである。

そして、その明治天皇であるが、第一巻から読んでくると、孝明天皇の皇子として京都で生まれたものの、帝王教育というようなものはうけていない。塀の奥の、京都の御所の奥深く、一般の市民とは隔絶したところで育った。それが、明治維新になって東京に出てくることになって、外国からの賓客と接する必要がおこるようになって、また、明治宮廷の近代化ということが行われることになって、徐々に、近代的な天皇らしくなっていく。また、メディアにおける天皇のイメージ……錦絵であったり、写真であったり……も、明治なってから、徐々に形成されていくことになる。

ところで、天皇で思い出すのは、今上天皇のこと。その退位の意向を示されたメッセージのなかで、日本各地を旅して人びとの暮らしによりそうことが象徴天皇としてのつとめである旨のことを、語っておられた。このような天皇のあり方は、先の昭和天皇をひきついでいるものでもあろう。

天皇の巡幸ということは、明治になってからの「発明」(この用語は著者はつかっていないが)である。例えば、伊勢神宮でも、明治になるまで天皇が参拝するということはなかった。

近代になってからの明治天皇のイメージというものも、やはり明治になってから創り出されてきたものであり、それには明治天皇自身の意思も働いていたところもあるし、周囲の重臣たちの意向でそうなっていったというところもある、この年代的な変化が、編年的に語られる『明治天皇』を順番に読んでいくと、感じ取れるところである。

以上の二点が、第二巻までを読んで思ったところである。

次の第三巻は、憲法の制定から、日清戦争のできごとになる。楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-02-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年2月3日
『明治天皇』(三)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/02/03/8781281

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/22/8774280/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。