『老いの生きかた』鶴見俊輔(編)2018-02-02

2018-02-02 當山日出夫(とうやまひでお)

鶴見俊輔(編).『老いの生きかた』(ちくま文庫).筑摩書房.1997 (筑摩書房.1988)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033277/

鶴見俊輔の本をWEBで探していて、たまたま見つけたので買ってみた。こんな本も出していたのかと、ちょっと意外な感じもした。

もとの本が出たのが、1988であるから、一昔前のことになる。その当時の「老い」の状況と、今日の少子高齢化社会を迎えての「老い」の状況は異なるだろう。時代とともに文学があるとするならば、これからの時代、「老い」ということは、大きな文学のテーマになるにちがない。

おおむね、日本の近代文学の作家は若死にしている(今日の平均寿命とくらべて、ということなるが。)漱石など、五十で亡くなっている。だからということもないが、漱石の作品には、あまり「老い」を感じるものがない。鴎外も同様である(史伝になると、すこし趣が違うかもしれないが)。

芥川龍之介や太宰治は、若い時に、自ら命をたっている。

これまでに読んだ作品で、もっとも「老い」を実感したのは、『山の音』(川端康成)である。

やまもも書斎記 2017年2月15日
『山の音』川端康成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/15/8362121

この鶴見俊輔(編)『老いの生きかた』であるが、「老い」をテーマにしたアンソロジーである。全部で二十編ほどの短い文章をおさめてある。

その最初に収録されているのが、「柳先生」。中勘助の作品である。昭和22年の文章である。小学校のときの思い出として、柳先生のことを書いている。老教師の生活である。短い作品なのだが、最後を読んで、「人生五十年」とある。(私は、もうとうに五十をすぎてしまった。)

まだ、戦後まもないころの時代としては、人間の生涯というのは五十才ぐらいが、一つの節目であったのだろう。それが、いまでは、七十、八十までは、元気でいるのが当然のような時代になってきた。

しかし、人は必ず年老いる。少子高齢化社会において、文学は、どのような「老い」を描いていくことになるのだろうか。ちょうどその時代に、自分自身が生きてきていることになる。

生老病死という。「死」についての文学は多くある。「老」は「死」に向き合うことでもある。だが、今日では、それのみではない。鰥寡孤独の境涯にあって、ひとりで生きていくことの意味を考えることにもなろう。また、社会的には福祉の課題でもある。

これからの読書、自らの「老い」を考えることにもなるのかと思っている。

と、以上の文章を書いたのが数日前。今、読んでいるのは、『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子)、第158回の芥川賞である。これは、まさに、老年小説というべき作品。この本については、後ほど。